惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊸)




光秀の時衆との深いかかわり合いには、彼の生い立ちが寺院そのもの中で

形成されたと考えられることにあるかもしれません。

中世日本は、武家社会と規定されますが、真の支配者は、何重にも積み重ね
られた宗教集団の層であり、公家(こうけ)、武家はその存在を補完する対象で
しかすぎませんでした。

室町幕府の守護制は寺社荘園を担保するものとして、寺社に認可され、全国
に設置されましたが、幕府の弱体化にともない、地方の国人領主らが守護の
地位を侵食し、寺社荘園は、荘園管理が地頭に握られる様(地頭請け)になり
中央寺社勢力の弱体化を招きます。

中世日本の終焉は、信長入京ならびに比叡山延暦寺焼討ちをもってするとあ
ります。都の大寺院の伽藍等は応仁の乱等の戦火でほぼ焼け落ちており、残
存した比叡山上にそびえ立つ大規模建築が、一夜にして信長により消滅したこ
とは、公家や都の人々に新時代の到来を予感させました。

信長後、秀吉、家康により真の武家政権が確立されるのですが、信長の時代
延暦寺のみではなく、信長の最大の敵である一向宗らの宗教勢力との戦い
の時代であり、天正十年時には、寺社勢力をほぼ支配下におきます。

この叡山焼討ちから、高野山攻めまで十数年にわたる、信長と宗教勢力との
戦いに最大の貢献をしたのは光秀でした。

叡山焼討ち後、五十万石といわれる延暦寺所領は光秀に与えられ、興福寺
南都寺院を武力恫喝し織田の完全支配に導いたのも光秀でした。

一向宗との戦いでは、その総大将であった佐久間信盛追放時の書簡で、光秀
の働きを信長は絶賛しています。

これはあまり語られることのない事ですが、信長の宗教政策の中心的補佐役は
光秀であったと私は思っています。

整理して述べますと、新時代を開く信長と、中世最大の政治勢力である寺社そ
してその補完勢力であった、幕府、公家が複雑に絡み合った都、そして地方の
自立し戦国大名化した旧守護勢力や新興の国人勢力の持つ京の位置づけを
見ることで、光秀の信長謀殺の一端が見えるということです。

極論してしまえば、幕府奉行衆・奉公衆が光秀を担ぎ上げ、単独で信長襲撃の
舵を切ったとは考えにくいということです。

言い方をかえれば寺社なくして幕府は存在せず、寺社の持つ観念的中世理論
が光秀を突き動かし、信長打倒に至ったということですが、漠然と述べたこのあ
たりのことを整理して次に続けます。

幕府奉公衆・奉行衆の項は、同朋衆(時衆)との関係性の中で更に深く述べた
かったのですが、別の機会にしたいと思います。

続いて私なりの光秀論を述べてこのプログを終了したいと思います。