惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か②)




明智氏の本貫地はどこだったのでしょうか。大雑把に書いていきます。
可児明知荘説と恵那遠山荘説の二つあり、現在は可児説が有力です。
 
可児明知荘は藤原摂関家につらなる小野宮家を領家としていたのが、
史料上の初見で、元永元年十二月の右中弁源朝臣雅兼を奏者とする
官宣旨により明智荘が小野宮家から岩清水八幡宮別当家に譲られた
のを確認できます。

その後明知荘では、押領、略奪の類が発生しており、後鳥羽院庁から
在庁官人に対し、下文をもってその停止を命じています。

別当道清は先に院庁に解状を出し窮状を訴えており、院庁の略奪停止
命令文の中で、荘の伝領経緯や関係人の氏名を知ることができます。

この下文の発給年は1204年で、この時点では明智氏の先祖らしき者を
確認することはできません。

その後岩清水文書の中で、近衛家や春日社に関する明知荘の動きが
確認できますが、1240年ごろを最後に明知荘の記述は途絶します。

文書内での関係史料の再見は1413年の明知荘上下郷領家識契状案
ならびに1426年の上下荘代官職請文で、領家の方では法眼調清と法
印保清の名を確認できます。

問題は代官職の方で、代官名は実然、仲然、祐然とあり、地頭の存在
は見られず、明智氏が当時この地を実効支配していた形跡すらみられ
ません。

更に宝徳元年(1449年)十一月、将軍足利義政管領畠山持国をもって
岩清水八幡宮検校法印あてに明智荘の年貢に関して御教書を発給して
おり、当時義政に近侍していた奉公衆明智氏明智荘を支配していなか
ったことがわかります。

長享元年(1487年)十二月、将軍足利義尚は地頭代西竹法印あてに斎藤
妙椿死去後の明智荘の知行を安定させるよう、同じく御教書をもって厳命
しています。

斎藤妙椿明智荘を隠居場としており、自身の死後は、明智荘からの年
貢を八百津にある善恵寺に寄進すると同寺あて書状に述べており、御教
書はそれに対応したものでした。

これらのことから、この明智荘は奉公衆明智氏とは関係性の薄い所であ
ると推察でき、この明地荘は明智氏の本貫地ではないと言えると思います。