惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2019-08-24から1日間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か⑦)

細川藤孝は武士の出自や経歴に一切の関心を持たなかった、とその 子忠興は述べています。 秀吉に迎合し、狂歌を進呈する彼の姿からもそれをみてとれます。 (光秀と秀吉④) 当時彼は超一流の文化人であり、朝廷からも深い信頼を勝ち得ていま した。 彼は光秀…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か⑥)

光秀以前の明智氏に関係する文書は、沼田土岐氏に残存した「土岐 文書」内で確認できる二十点以外は数点あるのみで、僅かである。 沼田土岐氏の始祖明智定政は父を明智定明、母を菅沼定広の娘と いい、父定明が土岐嫡流家の内紛に巻き込まれ殺害されると、母…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か⑤)

光秀は明智の姓を惟任と改名した後、この姓を新たに光秀の配下にな った丹後の土豪や、都洛北を所領とする佐竹氏らに名乗らせています。 佐竹秀慶は明智秀慶と改名し、三宅秀満は明智秀満となった。要する に光秀には彼を支えるイエはなく、自前の家臣団を創…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か④)

いずれかの明智郷が、明智氏のいわゆる名字の地であり、先祖重代相伝 の本領であるなら、必ずそこには支配関係が成立しており、なんらかの文書 例えば、所領安堵状などが後世に伝わる可能性は大きい。 中世、武士の本領への執着心、すなわち相伝の所領を失う…