2015-07-01から1ヶ月間の記事一覧
勧修寺晴豊が記した「晴豊日記」には、本能寺の変後、都の多くの人々 が禁裏周辺に避難し小屋を作り生活していたとあります。 ノケ者数カキリナシ、コヤ共カケ、事他也 光秀は、都の治安を守ると表明し、税の免除を約しましたが、禁裏への 避難民は増え続け…
「多聞院日記」には 十四日、日中マテ大雨下、打續降雨、希代也 とあり、十四日お昼まで大雨で、このように雨が続くことは珍しいと記されて います。 「兼見卿記」の十三日の記述には 十三日 己亥 雨降 申刻至山崎表鐵放之音数刻不止 とあり、降雨の中、午後…
天正十年六月九日(新暦七月八日)、吉田兼見の屋敷で光秀から、天皇と 誠仁親王に進上された銀子五百枚を持って、日没後兼見はまず勧修寺晴 豊宅を訪れ、一緒に御所へ向かい、献金について長橋御局に報告します。 その後誠仁親王と対面し、委細を申し入れ女…
都へ帰還した吉田兼見のもとに光秀から書状が届きます。前日八日に明智軍 先鋒は、山科、大津に陣を構えており、摂津侵攻に向けた進軍でした。 「兼見卿記」(別本)には 以自筆申夾了 とあり光秀の自筆書状が届いたとあります。関ヶ原戦前の、徳 川家康の様…
天正十年六月六日、吉田兼見は、勧修寺晴豊より書状を受け取り、参内し ます。誠仁親王と対面し 日向守為御使罷下、京都之義(儀)無別義之様堅可申付之旨仰也 と「兼見卿記(別本)」にあるように、安土にいる光秀のもとへ勅使として 赴くよう命ぜられます…