惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2017-01-01から1年間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉓)

奉公衆明智氏の存在は、三つの番帳の中で確認することができます。 文安番帳の中で、明智中務少輔が、長享番帳の中では、明智兵庫介 、明智左馬助政宣の両名が、そして東山番帳の中に明智兵庫頭、明 智中務少輔の名が記されています。 明智氏が、奉公衆とし…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉒)

石谷氏には、土岐石谷氏と遠江石谷氏がありますが、全く血縁関係は ありません。 しかし、土佐国内には石谷を名乗る一族があり、土佐守護代細川氏の 家臣であったとあります。 この石谷氏は土岐石谷氏と同じく、美濃石谷郷を本貫地とし、美濃源氏 の流れを汲…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉑)

石谷氏は、美濃土岐氏嫡流、二代当主光行をその祖とし、国衛、親衛とそ の流れが続きます。 土岐光行が承久の乱で反幕府行動をとることで、嫡男国衛から、有力御家 人千葉氏を出自とする母を持つ、五男光定に惣領権が移りました。 国衛は、土岐氏所領の一つ…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑳)

斎藤利三は光秀同様その前半生には謎が多い。経歴には諸説あり、三好長慶 の家臣松山重治に仕えたとか、美濃白樫城の城主であったとか定まらない。 父斎藤利賢は実在が確認できるが、前斎藤氏の系図の乱れから、それ以前を 遡るとよくわからなくなります。 …

続濃州余談⑰

惟任光秀が、雑賀の土橋重治に送った、書状の原本が見つかりました。 明治22年、東大史料編纂所が、書状の写しを作成したのち、この原本は 行方不明になっていました。(毎日新聞9月12日) 原本が見つかったことで、この書状の内容が再度注目されますが、光…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑲)

「寛政重修諸系譜」では、斎藤利三の正妻は斎藤道三の娘であると記され ています。この説にたてば、利三と、道三が家督を譲った義龍は義兄弟と なります。 この義龍には、嫡男龍興以外に、数名の女子があり、その中の一人が、伊 勢貞良に嫁ぎ、貞為、貞興兄…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑱)

「寛政重修諸家譜」では、斎藤利三の正妻は斎藤道三娘とあります。 道三の娘は他に、織田信長室濃姫、菊亭晴季室、筒井順慶室があり 、ここに光秀、利三と筒井順慶の接点がみられるのですが、確たるも のではありません。 道三の室には、有名な深芳野がいま…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑰)

奉行人斎藤氏と、美濃国に強大な勢力を保持した美濃斎藤氏とは、そ の活動範囲は明確に区分できます。 しかし共に平安時代の武人藤原利任を祖と称しており、北陸地方を拠点 とし、藤原尚忠の流れが、美濃目代として、美濃国の皇室領管理に赴き 、土着し美濃…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑯)

室町幕府奉行衆は、鎌倉期以来の家柄をその出自とし、幕府の裁判 をはじめ、立法などにも関与する実務のエキスパート集団でした。 鎌倉期と同様、幕府の全国的統治を実現する重要な存在でしたが、そ の身分的、経済的な地位は、恵まれたものではありませんで…

続濃州余談⑯

斉藤利賢は斉藤利三の父であり、蜷川親順女を室としており、その離別後 は継室として明智光継女を迎えたとの説があります。 光継は光秀の祖父にあたる人物といわれ、光秀の父にあたるとされる光綱 と継室である斉藤利三母は、同母であるとの説に立てば、光秀…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑮)

鎌倉幕府においても、その政権運営上、官僚機構の中心に奉行人があった。 特に、都および西国を管轄下におく六波羅探題には、多くの六波羅奉行人が 存在しました。 彼らは北条政権が滅亡すると、後醍醐天皇の建武新政府雑所等に転じ、更 に足利政権が誕生す…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑭)

応仁の乱後、室町幕府は各地の守護勢力に対する支配権を喪失します。 全国に百ヶ所近くあった御料所も、その年貢は押領され、山城国を除けば、 丹波国桐野河内の他には、備中国小坂郷、若狭国木津庄、富田郷などを かろうじて実効支配しているのにすぎません…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑬)

伊勢貞興の祖父である政所執事貞孝に関しては、政所代蜷川親俊 が記した残存する日記の中で、その行動を知ることができます。 親俊は貞孝を、貴殿と敬称をもって呼んでおり、主従関係にあること がわかります。 蜷川氏は、山城国山科を領した宮道氏から派生…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑫)

元亀三年七月四日の日付で出された「伊勢貞興返答書」があります。 宛先不明ですが、足利将軍の軍装等を記したもので、貞興の花押 があります。 内容は高度であり、当時十歳である貞興が、記憶し書き記せるもの ではなく、伊勢氏家臣の奉行衆の誰かが代筆し…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑪)

慶長二十年(1615年)五月、豊臣秀頼、淀殿は大阪城、山里曲輪にて、自害し ます。この時、ともに自害した者のなかに阿古局がいました。 阿古局は和期局とも言われ、父は伊勢貞為ないしは貞良といわれます.。史料 的に整合性が確定できず、年齢、事跡らから…

明智資料㊻

伊勢貞為は貞興の兄であり、政所執事であった祖父貞孝と父兵庫頭貞良 が、足利義輝と対立し、挙兵戦死すると、伊勢氏家臣団や貞興とともに若狭国 へ逃れました。(奉行衆・奉公衆⑥) 三好三人衆により義輝が殺害されると、貞為は足利義栄に仕えますが、義輝 …

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑩)

元亀四年七月、禁裏の調停により、信長との和議がまとまり、二条城から 宇治槇島城へ移った足利義昭は、再度挙兵します。 光秀、細川藤孝らが槇島城を囲みますが、城内には政所執事伊勢貞興 の姿がありました。貞興はこの時点まで義昭に近侍していましたが、…

続濃州余談⑮

後北条氏の祖である北条早雲は、伊勢盛時といい、伊勢氏嫡流家に 近い備中伊勢家を、その出自とする説が確実視されています。 早雲の父盛定は、政所執事伊勢貞親と共に、足利義政の側近として、 史料内で確認できます。早雲の母は貞親父貞国の娘であり、早雲…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑨)

伊勢貞興は幼名を、三郎、与三郎、熊千代と言い、永禄十一年十月二十 二日の「言継卿記」内の記述で、その存在が初めて確認されます。 足利義昭が十八日将軍宣下を受け、その返礼の為参内した折、貞興は 伊勢三郎七歳、非御供 とあるように、幼少の為、御供…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑧)

奉行衆とは、鎌倉幕府以来の法曹事務官僚の家柄の者の集団であり政 所におけるその出自は固定化されていました。 彼らは、足利氏政権樹立時には、足利直義により統率されており、そ の後は、伊勢氏を執事として管領の管轄下にありました。 康正年代に、管領…

明智資料㊺

文明十一年(1479年)、足利義政とその子義尚の配下にある奉行衆同士 が争います。 応仁の乱後も、幕政に大きな影響力を持つ八代将軍義政と配下の奉行衆 に対し、その権力排除を目論む、現将軍義尚配下の奉行衆との確執がそ の原因ですが、前将軍側にも、多…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑦)

「言継卿記」の、永禄八年五月廿一日付けの記述に、足利義輝討死 後の様子が 明日奉公衆、奉行衆悉三好松永等ニ禮被申云々 とあり、将軍家臣である奉公衆、奉行衆が悉く、将軍を襲撃殺害した 三好氏らに、敬意あるいは謝意を表明するために、彼らを訪問する …

明智資料㊹

伊勢氏は平維衡を始祖とする伊勢平氏であり、南北朝時代貞継が政 所執事となり、その後この職を世襲しました。 有識故実の家柄であり、江戸時代、旗本伊勢貞丈は伊勢礼法を編纂 し伝統を継承していきます。 伊勢氏嫡流家が、足利氏家臣団に組み入れられた時…