惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2014-07-01から1ヶ月間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人④)

この戦国時代は、まさしく戦争の時代であり、飢餓と貧困が蔓延した時代 でもありました。 領内が飢饉に見舞われ、食料が不足すれば、その確保の為に他領へ侵 入し、軍事行動の中で食料を確保します。 軍を構成する兵士は農民であり、村の指導者である武士が…

明智資料㉔

上から 秀吉直筆書状(ねねあて) 光秀直筆書状(ボストン美術館蔵) 家康直筆書状(千姫あて) 信長直筆書状(細川忠興あて感状) 間違いなく本人が筆をとり書いたと判る物です。

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人③)

岐阜の阜とは、中国語で、土、山の意味であり、盛、多の意味を合わせ 持ちます。物阜民豊は、阜を用いた四字熟語で、物資が多く、民衆が豊 かであるという意味になります。 「信長公記」によれば 尾張国小真木(小牧)山ヨリ、濃州稲葉山ヘ御越シナリ、井口…

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人②)

信長が存在していなければ、秀吉、家康、そして光秀は歴史の舞台 に登場することはなかったでしょう。 この稀有な軍事的天才は、まさしく日本のナポレオンでありました。 「天下布武」の思想は、秀吉、光秀に受け継がれ、家康へと形を変え ながら流れ込んで…

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人①)

日本における「天下」の概念は、中華思想に基づいています。秦、漢、 王朝時代に成立し、皇帝のいる場所と、その支配下にある地域を指し ました。 この概念は、日本には律令制の導入とともにもたらされ、天下とは天 皇が主宰する国家、地域をいいました。 律…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常㉔)

信長父信秀は、信長の那古野城入りにあわせて、 嫡男織田吉法師殿ニ、一オトタ、林新五郎、ニ長、平手中務丞、 三長、青山与三右衛門、四長、内藤勝介。是レラヲ相添ヘーー と信長を補佐する者として、四人もの後見人を家老としてつけました。 信秀にとって…

明智資料㉓

兜上部の天穴は、結った髪を出し固定したり、通気性をよくするなど の実用的な用途がありました。 その他に戦場において縁起をかつぐ武将らしく、この穴から神仏が降 臨して、武将を守護してくれるとの意味合いがありました。 機能的、様式美的、そして宗教…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常㉓)

戦国時代末期、派手な衣装や奇抜な行動をとる人の事を、「かぶき者」とい いました。この「かぶき者」の感性を取り入れた「かぶき踊り」が、都で流行 し、これが歌舞伎の名前の由来となりました。 織田信長は、若い頃はこの「かぶき者」の代表選手のような存…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常㉒)

「絵本太功記」は歌舞伎演目として、寛政十二年(1800年)、大阪角芝居 中山座で初演されました。 初演時の本外題は「恵寶太功記」、全十三段で、近松一門の合作です。 光秀が謀反を決意した時から、山崎の戦いで破れ、土民の竹槍で落命 するまでを、実録風…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常㉑)

歌舞伎演目「時今也桔梗旗揚」は本外題を「時桔梗出世請状」といい、文 化五年(1808年)、江戸市村座で初演されました。 四代目鶴屋南北作、初演時は全五幕でした。 「絵本太功記」などの、歌舞伎演目をもとにつくられていて、現在は「饗応 の場」「愛宕山…

濃州余談㉛

永禄十二年八月一日、山科言継は岐阜に滞在していた堺の今井宗久らと、 武井夕庵の案内で、山城を見学する為に金華山を登ります。 午後二時ぐらいに麓を出発しました。山頂に到着すると、城内で「微音音曲 共囃」があり、続いて信長と一緒に夕食をとりました…

濃州余談㉚

山科言継は、永禄十二年七月に、信長の居城のある岐阜を訪れています。 八日に都を出発し、坂本宿の布屋に宿泊し、九日は朝妻の北村萬介のとこ ろで昼食をとり、垂井の木村甚介のところに、その夜は宿泊しています。 代金は連れの者が支払ったのでしょうが、…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑳)

天正四年五月七日、巳刻、酉刻に大和国の当山(金峯山)が鳴動し、二筋 の光が、大阪にむけて走ったと「多聞院日記」に記されています。 大阪においては、この巳刻、織田信長が石山本願寺勢と、激戦を展開中で あり、酉刻、信長軍は勝利したといいます。 多…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑲)

信長は太陽であり、光秀はその光を受けてはじめて輝く、暗闇 を照らす月であったかもしれません。 光秀には、信長を討ち果たさなければならない理由と、確固た る信念がありました。 しかし、信長が消えた世界は、輝きを失い未来への指針を喪失 し、光秀自身…

濃州余談㉙

吉田兼見の父兼右は、北条氏と密接な関係を構築しており、北条氏は吉田家 を通じて、都やその周辺の情報を収集し、自家の情勢判断の材料としていまし た。 後北条氏の祖北条早雲は、伊勢盛時といい、足利幕府政所執事を代々務める 伊勢氏の出身でありました…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑱)

天正八年閏三月、織田信長と本願寺十一世顕如との間で、和議がまとまり ます。この和議に反対する顕如長男教如も八月には、石山本願寺を去り、 その直後この一大城塞は焼失します。 こうして本願寺は織田政権に屈服し、その支配下に入りました。 同年播磨国…

濃州余談㉘

親鸞を開祖とする浄土真宗は、戦国時代、日本歴史上稀に見る、戦闘的宗教 集団を形成していました。 この宗派の特質として、僧侶の肉食、妻帯を許し、講とよばれる組織を作り、 人々が団結する場所を与え、その結束力を高めました。 武力による自己宗派の維…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑰)

織田信長による、佐久間信盛追放の主要な理由である、石山本願寺勢との 戦闘怠慢については、疑問が多い。 信長は、中世を代表する本願寺教団に戦いを挑み、それに勝利し近世への 道筋を示したといわれます。 しかしこの戦いの本質はどこにあったのでしょう…