2014-04-01から1ヶ月間の記事一覧
軍事の天才信長は、又経済政策のエキスパートでもあった。いかなる 宗教も信仰せず、マキャベリズムを信奉する悪の化身であり、徹底した 現実主義者でありながら、理想主義的な側面をも併せ持つ、戦いが連 鎖する時代が産んだ軍人皇帝でありました。 彼の目…
本能寺は一四一五年から一四三二年までは「本応寺」と寺名を使い、一四三三年から現在まで「本能寺」を使用している。その理由は「本門八品相応能弘之寺」の言葉より本応寺・本能寺という寺名にした。また現在能という字の一部を去に替えて使用しているが、…
来日した、オバマ大統領と阿倍首相の共同会見の折、尖閣問題に関し て、米ABC記者からの「米国は、尖閣諸島への中国の軍事的侵攻に対 して、米軍に一線を超えさせるのか?」という質問に対し、オバマは「仮 定の話には答えられない。」と応えた。 尖閣は日米…
「明智軍記」によれば、光秀は鉄砲射撃の名手であるとの記述があります。 フロイスの「日本史」の中では、築城の名手であり、坂本に華麗な城を普請 したとあり、光秀に手厳しいフロイスが、その技術の高さを賞賛しています。 刀剣収集マニアであり、細川藤孝…
「細川忠興軍功記」によれば、 光秀公具足乍召。御参内被成。扨洛中之地子被成御免。 高札御立被成候事。 とあります。光秀が本能寺で信長を討った後、具足を着けた まま、参内した様子が窺えます。宮中に入るには、多くの取 り決めがあり、甲冑をつけたまま…
オバマ大統領はどんな感情を持って、日本を離れたのだろうか。愉快 ではなかっただろう。日本の現政権のしたたかさが感じられる。 そのしたたかさが民の幸せに繋がる事を期待したい。しかし裏切られた 者は、その屈辱と復讐の念をわすれない事を歴史は証明し…
この太刀は、織田信長が所有していましたが、本能寺の変の後、光秀が 戦利品として、安土城より持ち去りました。 その後家臣の津田重久の手に渡り、前田利長、徳川綱吉とその所有者 が変わり、現在にいたります。 (太刀 銘 長光)
光秀は刀剣の収集マニアであったようです。刀鍛冶の息子であると の説もあるぐらいです。 坂本城落城のおり、明智秀満はそれらが失われるのを惜しみ、他の 財宝とともに、包囲する秀吉方の堀秀政に、目録をつけて譲り渡して います。真偽のほどは不明ですが…
応仁の乱後の、明応二年(1493年)に起きた「明応の政変」により幕府内 における、将軍の政権統治機能は失われ、細川京兆家が政権の主導権 を握りました。 それ以降、足利将軍が政権の主導権を握った勢力の、影響下にあったこ とは間違いなく、この細川京兆…
幕府とは、東征する征夷大将軍の宿舎を指す。野外に幕を張り巡らし仮設住居 を設営した。江戸時代中期から、幕府という言葉が、その時代の政権を指すこと に用いられ始めたが、それ以前は将軍の宿舎を指していました。 足利氏一門による、軍事政権も、京の室…
日本では、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府とその歴史の中で、3度長期間に わたり、軍事政権による全国統治が行われました。 その政権運営母体は、武士階級といわれる、職業軍人たちで構成される武装 集団であり、その出自は天皇家にあり、その源流となる天皇…
足利幕府の主要政策に、守護大名に京での在住を、義務付ける事があり ました。守護を領国から切り離し、その力をそぐことが目的でした。 守護は領国に守護代を置き、領国経営にあたりますが、幕府は守護代と 直接結びつき、その力の増大を押さえ込むこともあ…
応仁元年(1467年)五月、応仁の乱が始まり、京とその近隣は戦場と なった。京市街地での戦闘は熾烈を極め、東軍、西軍ともに堀と土塁 で防御を固め、逃げ遅れた人々は、各陣営の中に生活の場を求め、 それ以外の地域は、焼け野原となった。狭いエリアでの戦…
ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが書き残した「日本史」のなかに 記されている光秀の人物像は以下のようなものです。 フロイスの文章の表現力は大変すぐれ、歴史家として正確な判断力を もっていますが、この光秀評は手厳しすぎる感があります。イエズ…
なけきても 名残つきせぬ なみた哉 猶したはるゝ なきかおもかけむつましき むかしの人や むかふらむ むなしき空の むらさきの雲あたし世の あはれおもへは 明くれに あめかなみたか あまるころもてみても猶 みまくほしきは みのこして みねにかくるゝ みし…
武田勝頼の異母弟、仁科盛信が討死にした高遠城は 現在は桜の名所として有名です。コヒガンザクラが咲き 乱れる。甲斐武田氏滅亡の折、織田軍に対して組織的 抵抗が行われた唯一の場所です。
多聞院日記は、天正十年六月二日、光秀が本能寺に信長を襲撃したその 日の筒井順慶の動きを以下のように記述しています。 順慶今朝京ヘ上処、上様急度西国へ出馬トテ、既ニ安土ヘ被歸申與欠、依 之被歸了。 順慶はこの日早朝に、京へ向かったが、信長様は西…
天正十年四月十五日、吉田兼見は三月二十三日に派遣した、鈴鹿喜介の帰国 により、信長、光秀、近衛前久、森成利らからの返状を受け取ります。彼らはすで に、安土への帰路にあったのですが、近衛前久からの返書により、万里小路充房 が「勅使」として東国へ…