2014-02-01から1ヶ月間の記事一覧
唐物茶壷 銘 松花 信長が茶会に用い、信忠に与えた茶壷です。 信長が所有したと確認できる名物のうち、 現存する数少ないものです。 光秀も参加した信長の茶会では、この壷が 書院を飾ったことでしょう。
織田氏の系図は、信長以降に、作成されたものが多く、その信頼性は疑わしい。 平氏を名乗るのも、信長時代になってからであり、戦国時代に広く流布していた 源平交代思想に、信長が影響をうけたことからと思われます。 確実に辿れるのは、信長の曽祖父までで…
信長の生母土田御前は、前述したように土田氏の出身であることは、信忠が 甲斐侵攻の折、可児郡の土田郷で一泊したことなどからも間違いありません。 更に信秀の父も、土田氏から正室を迎えているのですが、織田家中において 土田一族が外戚として重用された…
織田信長と明智光秀の縁戚関係を示すものには、以下の3つがあります。 (1) 信長実弟信行の子、信澄は光秀の娘を後室に迎えている。 (2) 信長実母土田御前の父土田秀久は、美濃国可児郡に拠点を構える土豪 土田氏の惣領であり、その実母は明智氏を出自…
織田信長という稀有な個性が主宰する、織田スクールの優等生が光秀と秀吉であり ました。光秀は信長の意を受け、織田政権内への幕府行政機構の取り込みに注力 しその簒奪に寄与しました。朝廷対策にもその経験から、細川藤孝らと参画し、信長 の意向通りに天…
明智光秀・木下秀吉連署状といわれるものです。少しみずらい ですが右下に、明智十兵衛尉、木下藤吉郎とあり、光秀、秀吉 と署名し花押があります。これにより光秀は歴史の舞台に登場 するのですが、秀吉がその最初の相手なのは皮肉なものです。 (光秀とそ…
唐草文染付茶碗 銘荒木 「荒木高麗」とよばれています。荒木村重が愛した器です。 光秀も、長女革手の婚礼の折、村重邸でこの器で接待さ れたかもしれません。 村重の愛妻だしも手にしたことでしょう。
明智資料①は光秀が、細川父子に当てた自筆の書状です。その3項目の内容はこのよ うなものです。 我等不慮之儀存立候事、忠興ナド取立可申トテノ儀二候、更無別条候、五十日、 百日之内ニハ、近国之儀可相堅候間、其以後者、十五郎、与一郎殿ナド引渡申 候テ…
天正九年十月、信長は前田利家に能登の国に知行を与えます。そして越 前での知行分を菅谷長頼に渡し、妻子、部下とともに、守備するすべての 城と部下の私邸も残らず菅谷に渡し、移住することを厳命します。 十一月、同じく秀吉、中川清秀に対し、西国二ヶ国…
光秀が本能寺で信長を討たなければ、秀吉の時代が到来す ることはなかったでしょう。山崎の戦い以後の秀吉の天下取り の野望は、一挙に噴出してとどまることがなかった。 信長政権が、本能寺の変後、瞬時にして崩壊するのは、信長 とその後継者、信忠の喪失…
天正十年一月九日、坂本光秀邸にて連歌百韻興行「さされ右の」。連衆は 光秀・藤孝・紹巴・昌叱・宗及・利三(斉藤)・秀就・光慶(明智)・重儀とあります。 藤孝は、安土へ向かうことなく、翌日都の兼見邸を忠興とともに訪問し帰郷 します。 間近に控える、…
細川藤孝は通説では、三淵晴員の次男として生まれ、和泉半国守護細川元常の 養子となるとあります。 藤孝と光秀の連歌を通じての交流は古く、その関係性は深いものがあります。光秀 が藤孝の中間であったとか、幕府奉公衆で、足軽の身分であったとの説もあり…
細川さん。落選残念でした。小泉さんからの手紙をお見せ ですが、ご先祖も山崎の戦い後、討ち取られた光秀からの 手紙(明智資料①)をこのように、秀吉に見せて、身の潔白 を示したのでしょうか。
光秀による、天正十年における、本能寺襲撃の背景を考えるには、織田信長という類ま れな個性が作り上げた、織田軍事政権の特性と変質を、明らかにする必要があります。 (1)尾張美濃時代 一族並びに近隣土豪らとの苛烈な支配権争いを経て、信長が尾張半国…
上卿 甘露寺大納言 天正十年十月三日宣旨 平秀吉 宣令叙従五位下 蔵人頭左近衛権中将藤原慶親奉 これは、足守木下家に伝わる、ねねが秀吉死後も、大事に保管していた口宣案です。 口頭で朝廷から、秀吉に伝えたものの案文で、その後秀吉に渡されたと思われま…
昨年あらたに見つかった光秀の書状です。天正三年までに 書かれたもののようです。資料①が天正十年ですから、かな りの時の経過がありますが、筆の濃淡や行間にあまり変化が みられません。資料①がかなり混乱した中で書かれているの を考えてみると、光秀は…
光秀が、本能寺を襲撃した後、細川藤孝、忠興父子に 加勢を依頼する書状です。緊迫した当時の状況が伝わ ってきます。
光秀は永禄十二年、突如歴史の舞台に登場します。山城の国での寺院領の安堵、 ならびに都での信長・義昭の住居近くへの、立ち入りを禁止する書状を発給したの に続いて、四月十四日付けの有名な秀吉、光秀連署による禁制で、賀茂庄中に 対して、年貢納付と労…
光秀の実母は、牧の方といい、若狭武田家の出であるといわれますが、その実在を 示す資料は何もありません。 光秀と正妻煕子のあいだには、いくつかの逸話が残っています。何故このような話が 残っているのかは不明ですが、光秀がすすんで煕子を妻に迎えた事…
光秀には三人の女子がいることが確認できます。私は三人とも煕子とのあいだの子だと 思っています。 長女は革手といいます。大変変わった名前ですが、こう推理しています。 現在の岐阜市に、上、下川手として地名が残っていますが、光秀の時代は、革手といい…
光秀と煕子の間の男子として、確認できるのは嫡男光慶のみである。光秀の亀山城普請と 時同じくして、信頼できる一次資料に登場します。十五郎をなのる。天正九年四月細川藤孝、 忠興父子に招かれ、父光秀とともに、天橋立にて遊んでいます。 同六年光秀女玉…
光秀の生年はよくわかっていません。「明智軍記」とそれを参考にして作成されたと思われる 系図書からのみ、没年時55歳であると推定されるだけです。 生年はそこから逆算するより他ないですが、信憑性に乏しく不明であるというのが確実でしょう。 没年は天…