2014-01-01から1年間の記事一覧
天正三年八月十二日、信長は越前一向一揆討伐の為、岐阜を発し 敦賀へと向かいました。 前年には、長期にわたる伊勢長島での、一向門徒との戦いに信長 は勝利し、一揆勢の籠った屋長島、中江の両城を火攻めにして、二 万に及ぶ男女を焼殺したといいます。 「…
「多聞院日記」の天正三年五月十七日付けの記述に 岐阜ヘ筒井ヨリテッハウ衆五十余合力ニ被遣之 とあり、筒井順慶から鉄砲の射手を信長へ派遣したとあります。 英俊は迷惑な事、と述べています。 信長から細川藤孝宛の五月十五日付けの書状には 去十二日之折…
長篠の戦いは、長篠城を囲んだ武田軍に対して、家康からの救援要請 を受けた信長が後詰に向かい、武田軍と織田・徳川連合軍が設楽原で 主力決戦を行った結果、武田軍が壊滅的敗北を喫したものです。 信長に主力決戦の意図があったかはよくわかっていません。…
天正二年七月二十九日、信長は光秀に長文の書状を出しています。 これは、光秀が信長に出した二十七日付けの書状の返事で、二十 九日に受取り、即日返信しています。 この書状は現物が細川家に残り、八月五日までの細川藤孝宛書状 と内容が一致するところが…
天正三年五月二十四日、吉田兼見は坂本城に光秀を訪問してい ます。光秀が長篠戦に参陣していたとの説がありますが、「兼見 卿記」の記述をみれば、光秀は畿内にいたことがわかります。 廿四日 壬戌 明十爲見舞下向坂本了、薫衣香十袋持参、今度三州表之儀自…
天正三年四月四日、光秀は河内高屋城に籠る三好康長攻撃の 為、都を出発しました。 翌五日、細川信良が率いる旧幕府奉公衆が、そして六日、信長 率いる主力一万余が河内へと向かいました。 「兼見卿記」によれば、 明智十兵衛尉出陣南方、二千騎、 とあり以…
天正二年一月二十七日、武田勝頼は東美濃に出兵し、この地の武田方 の拠点岩村城から八キロ程の距離にある、織田方の明地城に対して攻 撃を開始しました。 その報せを聞いた信長は、信忠とともに出陣し、その頃大和の多聞山城 の留守番であった光秀も、参陣…
天正二年甲戌 正月朔日、京都隣国ノ面々等、在岐阜ニテ、御出仕アリ。各 三献ニテ、召シ出ダシノ御酒アリ。他国衆退出ノ巳後、御馬 廻バカリニテ、古今ニ承リ及バザル珍奇ノ御肴出デ侯テ、又 、御酒アリ。去ル年北国ニテ討チトラセラレ侯 一、朝倉左京大夫義…
天正元年七月二十四日、光秀は山本対馬守攻撃に向かう途中、吉田兼 見を訪問しています。 翌二十五日早朝静原山城を攻撃しますが、対馬守は城に籠り光秀は城 外を放火しています。光秀が浅井・朝倉殲滅戦に参加していたかは不明 ですが、八月後半になると新…
信長の朝倉軍に対する追撃戦の中で、最も激戦であった刀根坂付近 の戦いにおいて、朝倉軍は、その軍事力の中核であった一門衆らを失 い、「信長公記」によれば、刀根坂から敦賀までの追撃戦のなかで、 織田軍が討ち取った首の数は三千以上であったといいます…
天正元年八月八日、岐阜城へ帰還していた信長は、阿閉貞征の織田 方への内応を聞き、軍を近江へ進め、小谷城を攻撃します。 休む間もない信長の行動力に驚嘆します。織田軍は、武田氏の当面の 脅威から脱し、大軍をもって浅井・朝倉氏にあたり、朝倉義景は内…
足利義昭は、十二代将軍義晴を父に持ち、兄十三代将軍義輝同様 、関白近衛尚通の娘慶寿院を母に持ち、門跡寺院興福寺一乗院に 入室します。 武家の棟梁としてだけではなく、五摂家筆頭近衛家に繋がり、南都 の守護としての未来を嘱望された、武家、公家、仏…
一旦和議が整った信長と義昭でしたが、一ヶ月後には不穏な空気が 両者の間に漂います。 佐久間信盛は、義昭重臣一色藤長へ、「天下之議」で幕府、織田氏が 、「信長年寄共血判」を以て定めた「御誓紙」について、織田方は違約 がないと伝えています。 そして…
武田信玄が、長尾景虎(上杉謙信)との川中島での決 戦の勝利を願い、生島足島神社(下郷諏訪大明神)へ 奉納した直筆の願文です。縦6㎝横13㎝の小さなも のです。 願文は当時の高級品である、鳥の子紙に書かれ、現 在も光沢が残っています。雁皮を主原料…
武田信玄の三方原における徳川・織田連合軍撃破の報せは、足利義 昭を勢いづかせ、義昭は畿内の土豪たちに対しても、武装蜂起の内命 をくだします。 光秀に従っていた、洛北武士団の山本対馬守、磯谷久次、渡邊宮内 少輔らは、叛旗を翻し、近江へ進み、山岡…
「三方原の戦い」の全貌はよくわかっていません。現地を訪れてみる と浜松城と古戦場のあいだが至近距離であることに驚きます。 浜松城に近づく武田軍に対しての戦前日の軍議では、城内に篭城し、 武田軍の通過を待つ慎重派と、城外での一戦を望む決戦派に分…
天台宗座主覚恕は、信長による叡山焼討ち時、叡山におらず難を免 れ、その後甲斐武田氏の庇護をうけ、都に帰ることなく天正二年甲府 で死去します。 覚恕法親王は御奈良天皇の皇子で、正親町天皇のただ一人の弟 宮でした。延暦寺山門派の門跡寺院曼殊院で得…
叡山に対する殲滅戦の完了後、光秀は志賀郡を拝領しました。しかし 坂本近隣を除いては、本願寺門徒、叡山系の土豪、浅井氏の勢力が いまだ強い勢力を保持していました。 元亀三年三月、織田勢は浅井氏との戦闘を望みますが、浅井氏は応 じず、信長は軍を進…
永禄十一年十月二十五日、足利義昭は美濃へ帰国する信長へ感 状を下しました。 今度国々凶徒等、不歴日不移時、悉令退治之条、武勇天下 第一也、当家再興不可過之、弥国家之安全偏憑入之外無也 、尚藤孝・惟政可申也 十月二十四日 御判 御父織田弾正忠殿 御…
雄琴城主和田秀純は、宇多源氏佐々木氏の流れを汲む、近江守護六角 氏の庶流であるといわれます。 六角氏の名の由来は、都の六角堂近くに、館があったからといわれ、 足利義昭擁立の立役者和田惟政は、秀純の甥にあたるといわれます が諸説あります。 この和…
「言継卿記」の元亀二年十月十六日付け記述に 竹内殿ヘ参、客来之一味、蔓草、墨繪、懸御目、可然 繪之由承了、今度叡山之取物也、買得之 とあり、比叡山延暦寺焼討ちの折、略奪された絵画が、都の公家衆 のあいだで、お買得品として出回っていたことがわか…
足利義昭は、天文十一年(1542年)興福寺に入室し、永禄九年(1566年) に還俗するまで、二十年を越す歳月を僧侶としてすごしました。 一乗院門跡として、将来は興福寺別当を約束され、還俗時、権少僧都の 地位にあり名を覚慶といいました。 義昭には延暦寺…
「言継卿記」内の九月廿四日付けの記述によると、叡山焼討 ちを終えた光秀は 早旦明智十兵衛摂州高槻ヘ罷向、千計有之云々、相誠用意 之用云々 とあり、兵千人ほどを率いて摂津高槻へ出陣したとあります。 又その翌日廿五日の記述には 早旦奉公衆一色式部少…
光秀の時代、敵対勢力による寺社の焼討ち行為は、特別珍しいことでは なかったようです。 天文元年(1532年)、都の人々の多くは日蓮宗に帰依し、六条本圀寺を 中心に強い勢力を持っていました。 この年、一向門徒が大挙して都に押し寄せるとの噂があり、都…
延暦寺僧兵の起源は、寺が所有する宝物類を警護する為の、僧侶の 自警団的組織にありました。 延暦寺では、最澄の弟子円仁の流れをくむ山門派と円珍の寺門派が 天台座主の座をめぐり、衝突を繰り返していました。両派に属する僧兵 は武装化を進め、対立する…
叡山における、織田勢による僧侶を含む大量殺戮には、疑問視する見方が あります。しかし長い歴史をもち絶大な影響力を保持し続けた延暦寺が、こ の後秀吉らによる失地回復の試みが行われるまで、信玄のもとに逃げた僧 を除けば、なんら活動しえなかった事を…
天正二年九月段階で、特に敵対的な態度を取っていなかった延暦寺を焼 き討ちした信長の真意は、潜在的敵対勢力の除去と叡山領の奪取にあり ました。 その実行部隊の中軸は光秀配下の軍事力でありました。 洛北の武士団は、志賀の陣を経て光秀との連繋を深め…
一向門徒と浅井氏にとっては、織田氏との戦闘は終結していなかった のでしょう。 元亀二年二月、近江佐和山城主磯野員昌が浅井氏から離反し、織田 氏に寝返ると、一挙に緊張が高まり、浅井氏と一向門徒は近江そして 伊勢長島で戦闘態勢に入ります。 光秀は、…
比叡山麓での、織田勢と下山してくる浅井・朝倉勢との戦闘は限定的 であり、睨み合いが続いていました。 元亀元年十一月十三日、光秀は吉田兼見邸を訪問し勝軍山城在陣を 告げ、岩風呂を所望しています。 二十一日には、兼見父兼右が勝軍山城に信長を訪ね、…
健さんが逝ってしまった。 薄っぺらな時代の中でも、彼なりに目指すものがあったのだろう。 行く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし。 延暦寺大行満大阿闍梨・酒井雄哉から受諾したこの言葉を座右 の銘として、生き抜いた役者人生であった。 緒方拳の 不…