本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か④)
の本領であるなら、必ずそこには支配関係が成立しており、なんらかの文書
例えば、所領安堵状などが後世に伝わる可能性は大きい。
中世、武士の本領への執着心、すなわち相伝の所領を失うことは、武士の
名折れでした。
本領には、その氏族を守護する氏神があり、先祖の墓を有する氏寺やその
イエを支配する嫡流家の屋敷がありました。
中世武士社会においてイエ支配権は社会の核であり、有力寺社や守護地頭
あるいは将軍さえその支配に介入できなかった。
すなわち本貫地に根ざし、最初にその土地名を名字とした武士が一族支配
を行った。例えば足利氏は、基本的に他の庶流家、細川氏、桃井氏、今川氏
、畠山氏等に優越し、一族の支配権をもちました。
中世においてはこの単位すなわちイエを支配する者は、一人であり、足利将
軍家とはここに発足の原点があった。徳川将軍家もこの延長上にあることは
自明でしょう。
イエ支配権を持つ武士の屋敷の周り、特に前面にある土地を門田といい共通
してみられるものであり、その大小が身分の高低を示しました。
可児荘には、明智氏に関係する屋敷跡、氏寺、非常時の城塞等の遺跡は現
時点では確認できません。
明智氏と名主等農民上層部との関りあいを示す古文書も確認することができ
ず、奉公衆明智氏の本貫地は別にあるのであろうと推察できます。
た氏族の屋敷があったことが確認できます。
可能性は高い。中世のイエ支配権の成り立ちから考察していくと、妻木氏が明
智氏嫡流家であり、ここに光秀の正妻煕子の出自を重ね合わせることができる。
明智十兵衛光秀が、彼の本貫地である可児ないしは妻木を訪問した記録はあ
りません。
先祖の墓がある氏寺祟禅寺を彼が訪れないのは、彼がこの一族とは一線を画
する氏族ないしは下層武士の出身だったからかもしれません。