惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2016-06-01から1ヶ月間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉞)

元亀元年、光秀は信長上洛後まもなく、公家衆に対する家門、家領安堵作 業に従事します。 この作業は元奉公衆朝山日乗とともにおこなわれました。これらの作業は、 室町幕府初期に足利義満により、足利将軍が天皇、上皇をコントロールす る手段として、天皇…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉝)

天正八年十二月二十九日に、正親町天皇典待であり、誠仁親王生母の 万里小路秀房女(清光院)が急死します。 悲しみに暮れる天皇、親王を慰め、都に活力を蘇らす為に馬揃えが開 催されたと、の説がありますが、この一大セレモニーはやはり、信長に よる対本…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉜)

天正七年(1579年)七月、イエズス会東インド管区巡察師ヴァリニヤーノ は来日し、当地区の最高責任者として、日本布教の様子を視察していま す。 彼の滞在予定は二年でしたが、帰国に先立ち、信長との謁見を希望しま す。彼の宿舎南蛮寺は、信長の都での宿…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉛)

天正九年二月二十八日、内裏の東側に、北から南へ八町(880メートル程) の距離がある馬場を、毛氈で包んだ柱を立てて造り、内裏東門側の築地の 外側には、金銀を散りばめた行宮を設けて、天皇、公家を迎え馬揃えは開 催されました。 信長は下京本能寺を辰の…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉚)

貢馬御覧は、その起源は古く、鎌倉時代には賀茂祭にあわせて、執権 が名馬を献上し、天皇の内覧後、摂関家等に下されています。 室町時代になると更に整備されており、守護大名から供出された馬を、 将軍が貢納し、天皇が御覧になってから、公家に配分される…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉙)

天正九年正月十五日、織田信長は、馬廻衆および江州衆に爆竹を用意 させ、自らは南蛮帽をかぶり、赤色の衣服を身にまとい、眉を書いて、小 姓衆を先頭にして、安土城内の馬場にはいりました。 馬場では爆竹に火をつけ、馬を駆けさせ、そのまま安土の町へ繰り…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉘)

官を辞した信長と天皇、そして光秀が深く関った行事に、都での馬揃 えがありました。 天正八年、信長は長期にわたった、本願寺勢力との戦闘に終止符を 打ち、畿内全域をほぼ勢力圏に置き、天下統一を目前にします。 本願寺との講和には、正親町天皇、誠仁親…

続濃州余談⑭

このプログを始めてから、3度目の光秀による本能寺での 信長襲撃当日を迎えました。遅々として進まないプログ発 表を申し訳なく思っています。 だいだいの所で適当に結論を出して、次なるテーマに進み たい、と自分でも切望していますが、偏執的な性格なのか…