本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か⑦)
子忠興は述べています。
秀吉に迎合し、狂歌を進呈する彼の姿からもそれをみてとれます。
(光秀と秀吉④)
当時彼は超一流の文化人であり、朝廷からも深い信頼を勝ち得ていま
した。
彼は光秀の連歌の師であり、光秀娘玉は忠興に嫁いでいます。藤孝が
光秀を政治的な盟友としたのは、信長の意向のみではなく、彼の先見性
や行動力を高く評価した結果なのでしょう。
藤孝や忠興は、光秀の信長謀殺に至る真意を正確に理解していました
が、その動きに同調しませんでした。
同じく、その初期には光秀の動きを支持した筒井順慶も、藤孝の動きを
みて、光秀のもとを離れます。
天正十年、織田軍の甲斐侵攻戦の主力部隊は惟任軍で、そこに忠興や
筒井順慶ら光秀の親族が加わっています。
いですが、光秀が歴史上に登場してからの良質な一次史料は、潤沢に
存在します。
次のプログでは、ヘーゲルが述べたように、存在が意識を決定するとの
テーゼのもと、この織田政権末期の社会状況、政治、治世を更に深く、
掘り起こし、光秀が信長謀殺に至った経緯に迫っていこうと思います。
研究者からみれば、随筆といっても過言ではない稚拙な光秀論を長期
にわたり閲覧していただいた皆様、並びに、この場を提供して頂いた
Yahooさんに謝意を表します。