惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2015-05-01から1ヶ月間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉘)

天正十年五月廿九日信長は上洛します。この日の天気は「兼見卿記」 内に 自午刻雨降 とあるように、あいにくの雨模様でした。 兼見らは信長を出迎える為、山科まで罷り出ますが、先行する森乱ら 近習衆の出迎え無用の達しにより、数時間待機したのにもかかわ…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉗)

光秀の敗因の一つは、準備不足からくる兵員不足であることには 間違いがありません。 秀吉勢に対抗するだけの兵力があれば、山崎戦での勝利が可能 であったでしょう。勝利しなくても相手に相当な打撃を与えれば、 持久戦の中で、毛利氏、長宗我部氏、上杉氏…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉖)

価値観を共有することは、偉大なる創造者のまわりに、多くのエピゴーネン を産み出す結果となります。 経済のエキスパートであり、稀有な軍事天才である織田信長は、その帝国 を担う人材を、あらゆる階層から抜擢しその才を活用しました。 光秀、秀吉らはそ…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉕)

天正十年六月三日付けの「多聞院日記」にはこう記されています。 今日當國衆ハ悉大安寺・辰市・東九条・法花・寺邊陣取云々、如 何可成行哉 光秀の都における武装蜂起の報せを受けて、大和の国人領主た ちは大安寺等にそれぞれ結集したとあります。 これは、…