惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2015-08-01から1ヶ月間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会③)

山科言継の山科家は、朝廷内での管弦と服飾に関する職務を担当世襲する 家柄であり、言継は経済的困窮の極みにあった天皇のもとで、内蔵頭と御厨 子所別当として、朝廷内の財政管理にたずさわっていました。 山科郷を所領としたのがその名字の由来であり、大…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会②)

長期わたり南北に分裂していた天皇家が合一した時には、天皇家を頂点とする 公家社会はその政治的権限をすべて室町幕府に奪われ、その権威も形骸化し ていました。 朝廷は幕府の支配体制を儀礼等で補完するだけの存在として位置づけられ、そ の経済的基盤で…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会①)

三河国(愛知県東部)は足利氏の軍事・経済力の源泉であり、多くの足利氏支族 が生まれています。 現在でも、吉良、今川、一色、細川、仁木等の地名が残り、足利一族である彼ら の本貫地がそこにあったことを知ることができます。 足利氏は清和源氏の流れを…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㊵)

六月十五日、その日記の中で、吉田兼見は光秀の最後をこう記しています。 向州於醍醐之邊討取一揆、其頸於村井清三、三七郎 殿令持参云ゝ 光秀は醍醐近辺で一揆に討取られ、その首は村井清三により織田信孝へ 届けられたとあり、その最後は十三、十四両日の…