2018-01-01から1年間の記事一覧
元弘三年(1333年)五月、南朝方の赤松円心らの軍勢がせまる中、六 波羅探題北方北条仲時らは、御伏見上皇、花園上皇、光厳天皇を伴 い、鎌倉への避難をはじめました。 近江の国に入ると、探題南方北条時益は野伏の攻撃に会い戦死し、 仲時らも行く手を阻ま…
遊行十一代自空上人は、尾張萱津光明寺住職を経て、康暦三年(1381年) 、尾道常称寺にて、遊行を唯阿上人より相続しました。 自空は、戦場での時衆の活動について、掟を定め、その第一項にこう述べ ています。 時衆が、武士に同伴して戦場に赴くのは、死者…
「遊行三十一祖京畿御修業記」は、遊行三十一代同念の、天正六年 (1578年)七月から、同八年三月までの遊行の記録です。 伊豆より海路伊勢に入り、尾張、美濃、近江、都、大和を巡教し、それ 以前は、駿府で活動していました。 天正六年七月、織田信長へ使…
明智軍記内に以下の記述があります。 永禄八年、光秀は、越前長崎称念寺の園阿上人と、加賀山城温泉へ 湯治の旅に出ました。 この旅には、称念寺の時衆や小僧の定阿弥が付き添いました。光秀 は、僧侶に冗談を言ったり、即興で詩作したりで、楽しい旅を送っ…
里村紹巴は、連歌を通じて、光秀と極めて親密な関係にありました。光秀 が、紹巴にあてた手紙の中にも、その絆の堅さを垣間見ることができ、紹 巴は、愛宕百韻開催時、光秀の信長謀殺を知りえる人物でした。 (光秀と朝廷・公家社会⑨)(続濃州余談⑤) 紹巴…
鎌倉時代、連歌は講と密接に関連し、宗教的側面を持って発展しました。 特に菅原道真を祭る天神講は、連歌を奉納することで、天神供養を行い 、全国に波及しました。 このように連歌には宗教的な意味合いがあり、参加者のなかには、僧侶 や僧体の芸能者が多…
鎌倉時代末期から室町時代南北朝期は、全国で合戦が多発する 戦乱の時代でした。 寺社の束縛から離れ、各地を念仏行脚する時衆の僧たちは、転 戦する、足利氏等の軍団の中に身をおき、戦死した武士の極楽 往生を願い、弔いました。 彼らは、軍旅のなかで、武…
永禄九年九月以前、明智十兵衛尉光秀の名を、室町幕府関係、織田氏関 係そして朝倉氏関係の一次史料の中で、見出すことはできません。 「明智軍記」等の戦記、他家の家譜等に登場する光秀からは、その実在 を確認することはできません。 光秀の前半生を探る…
「細川家記」は、「綿考輯録」の別名であり、藤孝、忠興、忠利、光尚の 細川氏四代の業績をまとめたもので、安永七年(1778年)に完成しまし た。 詳細な記述で完成度の高いものですが、藤孝、忠興に関する記述には、 信憑性を疑われる部分も多く、「明智軍…
永禄九年九月、近江田中城に光秀と共に籠城していた、沼田勘解由左 衛門とは、沼田清延のことで、幕臣として義輝、義昭に近侍し、その妹 麝香は細川藤孝の正室となっています。 麝香は細川忠興の実母であり、自害した光秀娘玉に影響され、洗礼を うけ細川マ…
永禄九年(1565年)八月、信長の上洛戦は、斎藤龍興の和議破棄によ り不首尾に終わります。 これは三好三人衆による調略によるものであり、その手は六角氏にも のびていました。 これにより義秋(義昭)は、若狭その後越前と在所を移動させますが、こ の信長…
永禄八年(1564年)七月、覚慶(足利義昭)は近江国甲賀にある和田 惟政の館に入り、三淵藤英、大館宗貞、沼田清延、曽我助乗らの兄 足利義輝の側近がそこに参集した、と「足利季世記」は記しています。 覚慶は、八月には上杉謙信に書状を送り、兄義輝の無念…
熊本大学永青文庫研究センターの稲葉教授が、文庫内に現存する 米田家伝来の文書群の中から、光秀に関係する文章を解読されま した。 これは当時の薬の調合を記した文書で、その奥書(文書の最後に その由来を書きしるしたもの)に この調合書は、明智十兵衛…
天文六年(1537年)十一月、足利義昭は、十ニ代将軍、足利義晴の次男とし て誕生しました。 母は、関白近衛尚通の娘である慶寿院で、同母兄義輝が家督と十三代将軍 を継ぐことで、尚通の子稙家の猶子となり、興福寺一乗院門跡に入り、覚慶と 名乗ります。 摂…
十五代将軍足利義昭にいたるまでの、足利氏の血脈を整理してみます。 銀閣寺建立で有名な八代将軍義政は、弟義視を継嗣とします。しかし嫡男義尚の誕生 で、正妻日野富子らの策動により、義視はその地位を追われましたが、義尚が早世し ます。 富子は、自分…
鎌倉時代には、足利氏はすでに、家政機関としての奉行所を持ち、各地 に点在する所領には公文所を設けて、年貢徴収等で発生する諸問題を、 処理していました。 足利尊氏、直義兄弟により、全国政権が誕生すると、ここに北条得宗政 権下で、鎌倉幕府における…
永禄八年(1565年)、足利義冬を擁する三好・松永勢力は、将軍足利義輝を将 軍御所に強襲し、殺害します。 しかしこの両勢力は、半年後には、主導権をめぐり対立、戦闘状態に突入して 義冬の後継者である義栄は、松永久秀討伐令をだし、松永氏と決別しました…
永禄八年五月十九日の足利義輝最後の様子は「言継卿記」内に詳細に記 されています。 辰刻三好人数松永右衛門佐等、以一萬計俄武家御所乱入取巻之 戦暫云々、奉公衆数多討死云々、大樹午初點御生害云々, とあり、続いて、伊勢加賀守貞助が足利家伝来の御小袖…
室町幕府内での奉行衆、奉公衆の成り立ちには、足利氏嫡流家の家政機関にそ の原点が見られることはすでに述べました。 足利氏は鎌倉時代には、清和源氏の本流として、武士社会で貴種の位置にあ り、北条氏と婚姻関係を重ねることで、鎌倉幕府内で最も有力な…
織田信長による荘園制破壊の試みは、それに立脚した幕府奉行衆、奉公 衆らの権益を奪い、その長としての立場にあった光秀との軋轢を、信長と の間に生じさせたとの説があります。 明智家に従属する家臣団を持たない光秀にとって、その権力構造の核に、 幕府…