惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2018-08-01から1ヶ月間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊲)

鎌倉時代、連歌は講と密接に関連し、宗教的側面を持って発展しました。 特に菅原道真を祭る天神講は、連歌を奉納することで、天神供養を行い 、全国に波及しました。 このように連歌には宗教的な意味合いがあり、参加者のなかには、僧侶 や僧体の芸能者が多…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊱)

鎌倉時代末期から室町時代南北朝期は、全国で合戦が多発する 戦乱の時代でした。 寺社の束縛から離れ、各地を念仏行脚する時衆の僧たちは、転 戦する、足利氏等の軍団の中に身をおき、戦死した武士の極楽 往生を願い、弔いました。 彼らは、軍旅のなかで、武…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉟)

永禄九年九月以前、明智十兵衛尉光秀の名を、室町幕府関係、織田氏関 係そして朝倉氏関係の一次史料の中で、見出すことはできません。 「明智軍記」等の戦記、他家の家譜等に登場する光秀からは、その実在 を確認することはできません。 光秀の前半生を探る…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉞)

「細川家記」は、「綿考輯録」の別名であり、藤孝、忠興、忠利、光尚の 細川氏四代の業績をまとめたもので、安永七年(1778年)に完成しまし た。 詳細な記述で完成度の高いものですが、藤孝、忠興に関する記述には、 信憑性を疑われる部分も多く、「明智軍…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉝)

永禄九年九月、近江田中城に光秀と共に籠城していた、沼田勘解由左 衛門とは、沼田清延のことで、幕臣として義輝、義昭に近侍し、その妹 麝香は細川藤孝の正室となっています。 麝香は細川忠興の実母であり、自害した光秀娘玉に影響され、洗礼を うけ細川マ…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉜)

永禄九年(1565年)八月、信長の上洛戦は、斎藤龍興の和議破棄によ り不首尾に終わります。 これは三好三人衆による調略によるものであり、その手は六角氏にも のびていました。 これにより義秋(義昭)は、若狭その後越前と在所を移動させますが、こ の信長…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉛)

永禄八年(1564年)七月、覚慶(足利義昭)は近江国甲賀にある和田 惟政の館に入り、三淵藤英、大館宗貞、沼田清延、曽我助乗らの兄 足利義輝の側近がそこに参集した、と「足利季世記」は記しています。 覚慶は、八月には上杉謙信に書状を送り、兄義輝の無念…

明智資料㊼

熊本大学永青文庫研究センターの稲葉教授が、文庫内に現存する 米田家伝来の文書群の中から、光秀に関係する文章を解読されま した。 これは当時の薬の調合を記した文書で、その奥書(文書の最後に その由来を書きしるしたもの)に この調合書は、明智十兵衛…