2014-09-01から1ヶ月間の記事一覧
吉田兼見の正室は佐竹宗実の妹であり、兼見と宗実は親戚関係にあ りました。 佐竹氏は山城国愛宕郡高野を所領とする国人領主でしたが、織田氏 の勢力下に入り、明智光秀の与力となります。 愛宕郡高野は、吉田家の所領の北方に位置し隣接しており、佐竹、吉 …
慶長十八年、吉田兼見弟梵舜は駿府に赴き、家康に「続日本記」の 写本を献上し、同時に吉田神道を講義しました。 家康は秀吉同様すっかりこの教義に魅了され、更なる講義を所望し たといわれています。 元和二年、豊臣氏を滅亡へと追いやった家康も病の床に…
吉田兼見は、本来は兼和といい、天正十四年、後陽成天皇即位にあたり 天皇の諱である和仁を避けて、兼見と改名しました。 その足跡に関しては、彼の残した日記「兼見卿記」により、詳細に知るこ とができます。 兼見は慶長十五年(1610年)、豊臣秀吉の神廟…
菊枝桐紋蒔絵提子 高台寺蔵 これも秀吉との思い出の品であったのでしょうか。
織田軍事政権は、その政権運営機能は未成熟であり、どのような組織 形態であったかさえよく分かっていません。 豊臣政権になり、はじめて姿を現した新興武家政権の形が、信長のめ ざしたものだったのかは、今となってはわかりません。 こういった状況のなか…
奉公衆とは、有力守護を牽制する為に生まれた、将軍直轄軍でしたが 将軍自らの親征が途絶すると、その活動分野は、訴訟、将軍直轄地に おける徴税、幕府財政等、吏僚的な性格なものへ変質していきました。 その他にも、幕府の宗教政策、公武関係の調整、天皇…
室町幕府における奉公衆の成立時期ならびにその性格、役割等については よくわかっていません。 三代将軍足利義満の時、有力守護に対抗するために、その親衛隊(馬廻 り)が強化されたものが、五番からなる奉公衆であるといいます。 奉公衆とは、将軍直属の…
永禄十三年、足利義昭と信長の関係は、早くも綻びをみせはじめます。 光秀は朝山日乗上人と共に、両者の仲介作業に従事しています。 同年三月六日、光秀は日乗上人と共に公家衆に対して、その知行に ついて伺いを立てています。 「言継卿記」内に、以下の記…
山科言経は言継の子で、日記「言経卿記」を残しています。父親ほど 筆まめでないのが残念ですが、その私生活は劣らず波乱万丈でした。 父の死後、正親町天皇との間で、その所領同士での年貢の事で問題 があり、天皇の怒りを買い、勅勘を蒙り都を追放される事…
「言継卿記」は、元亀三年から天正三年までの四年間が、完全に欠 落しています。 元亀二年十二月二十九日付の記述に 村井民部少輔、霜當ヘ羅出之由、申立見舞、細兵、明智等 被呼之、茶湯之云々。 とあり、光秀らと茶の湯を楽しんだとあります。 更に同日 成…
「言継卿記」の永禄十三年(元亀元年)一月二十六日付の記述には 、明智光秀に関して、以下のように述べられています。 未下刻ヨリ奉公衆方、年頭ノ禮二能向、路次次策、竹内冶部少輔 、三淵大和守、-----、曽我兵庫頭、明智十兵衛(濃州ヘ下 向云々)…
この連署書状には、右から、柴田勝家、佐久間信盛、滝川一益、そして 明智光秀の名があり、この四人連名で、元亀三年卯月(四月)四日に発 給されています。 河内国交野城主片岡孫太郎宛に、織田勢河内出陣の折、戦いの用意に 奔走すべき旨伝えています。 恐…
光秀の直筆である可能性があり、かつ花押の真偽 が判断できる書状を集めてみました。 ①天正八年 出野左衛門助、片山兵内宛 日向守とあります。 ②天正六年 奥村源内宛 惟任日向守と記入があります。 ③年代不詳(天正三年迄) 奥村源内宛 光秀花押横に、惟任、…
天正三年六月二十四日の、「多聞院日記」内の記述に、「多聞山ヘ 去廿日塙九来」とあり、「廿五日塙九京へ歸上了」と、その翌日に 記しています。 塙九とは、塙九郎左衛門直政のことで、この頃信長の命により、大和 国の守護の職にあり、多聞山城へ来たこと…
惟任とは、奇妙な姓です。姓の大半を占める地名由来でなく、職業由 来や屋号由来でもありません。 中国語で、惟(wei)とは、ただ、だけ、とかひたすら、とか限定の意味 を持ちます。 任(ren)とは、役目に就く、担当する、とか喜んで引き受ける、とかの 意…
織田家家臣の中に、明智光秀、丹羽長秀以外にも、信長の命で、九州名 族の姓に、改姓した武将が二人います。 光秀と同時期に、簗田広正が別喜姓となり、別喜右近大夫を名乗ります。 広正は、桶狭間の戦いで一番手柄をたてた、政綱の子です。 もう一人は塙直…
陸軍大臣阿南惟幾は、本土決戦を主張するが受け入れられず、ポッダ ム宣言受諾を返電する直前に、陸相官邸で切腹します。 介錯を拒み、二時間後に絶命する壮絶な自刃でした。 惟幾の六男惟茂さんは元中国大使で、以前上海へ向かう鑑真号の 船上でお見かけし…
井原西鶴作の「世間胸算用」は、大阪梶木町の書肆(版元)伊丹屋太郎 右衛門、江戸の万屋清兵衛、京都の上村平左衛門により元禄五年に発 刊されました。三都市同時発刊でした。 さすが、売れっ子作家の西鶴です。江戸時代の字も満足に読めない庶民 の為の大…