惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か⑤)




光秀は明智の姓を惟任と改名した後、この姓を新たに光秀の配下にな
った丹後の土豪や、都洛北を所領とする佐竹氏らに名乗らせています。 

佐竹秀慶は明智秀慶と改名し、三宅秀満は明智秀満となった。要する
に光秀には彼を支えるイエはなく、自前の家臣団を創設したのである。

秀吉が羽柴の名字を与え続けたのと原点は同じであるが、秀吉ほどの
狂信性はなかった。

光秀が名のある武士氏族を出自とするならば、そこには家臣団が存在
しているはずであり、それが存在せず、明智名跡すらも捨て、惟任と
なったことからも、彼は明智嫡流家を出自としないことは明白であろう。

ただ光秀が、奉公衆明智氏の末裔である可能性はある。どの流れに
なるのか現在ではわからないが、所領のない武士として存在していた
のだろう。それともたまたま妻木煕子と知り合ったことで明智を名乗った
のでしょうか。

私は光秀が明智の名に執着していることや、本家筋である妻木煕子
との婚姻を考えると、都に居住した明智氏の末裔だったと思えます。

光秀が信長上洛以前から、都に大規模な住居を所有していたことが
山科言継の日記からわかり、その場所が洛北にあったことからもその
可能性は高い。