惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2019-03-01から1ヶ月間の記事一覧

明智資料㊿

望月華山氏編「時衆年表」内の、応永二十年(1413年)五月の項に 高野山の僧徒聖方の念仏を制禁すとあります。 高野山は真言宗金剛峯寺の山号であり、空海以来、庶民の信仰を 集めた密教寺院で、いわゆる東密の中心的な修行道場でした。 聖とは、時衆系(浄…

明智資料㊾

室町幕府奉行人が発給した奉書内で、その内容が明智氏に 関するものとして確認できるのは、以下の一通です。 土岐明智兵部少輔頼定与同名兵庫頭人道玄宜相論事、 今和睦知行分者、可折中旨、被成御下知訖、宜被存知 之由、所被仰下也、仍執達如件 明応四年三…

続濃州余談⑱

プログ閉鎖のお知らせ。 8月31日をもつて、Yahoo!プログサービス終了に ともない、当プログも終了いたします。 学術調査・研究の場とも言えず、又文学的にも拙 いものにもかかわらず、長期にわたり閲覧ありがと うございます。 惟任光秀に関する研究発表は、…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊷)

美濃國立政寺は、智通上人により開山され、永禄年間、美濃にお ける時衆寺院の中心として、末寺を多く抱える大寺院でした。 永禄十一年(1568年)、還俗した足利義昭は立政寺に対し、禁制を 発し、寺門前に掲げます。 一、軍勢甲乙人等亂入狼籍事、 一、陣取…