惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(HatenaBlog開始)

Yahooプログの閉鎖に伴い、HatenaBlogさんのほうでお世話になります。

ときとは秋と書き、社会や時代が大きく変化することを指します。

愛宕山で詠んだ戦勝連歌内に、光秀が込めた意気込みが感じられます。

現在、コロナが蔓延しワクチンの一刻も早い投与が待たれます。

もしかしたら、以前のような生活は戻らないかもしれません。しかし人間

の持つ可能性や多様性はより助長されていくことと思います。それが吉

とでるか凶とでるかは、誰にもわかりません。

大河麒麟も終わりを迎えます。自粛期間中楽しい時間を過ごさせてもら

いました。このBlogは私の趣味の世界であり、学術論文とはほど遠い

自己流な随筆みたいなものですので、気軽に読んでいただけたら幸いです。

光秀の出自はよくわかっていません。このあたりの事柄から始めてい

きたいと思います。

 

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か⑦)





細川藤孝は武士の出自や経歴に一切の関心を持たなかった、とその
子忠興は述べています。

秀吉に迎合し、狂歌を進呈する彼の姿からもそれをみてとれます。
(光秀と秀吉④)

当時彼は超一流の文化人であり、朝廷からも深い信頼を勝ち得ていま
した。

彼は光秀の連歌の師であり、光秀娘玉は忠興に嫁いでいます。藤孝が
光秀を政治的な盟友としたのは、信長の意向のみではなく、彼の先見性
や行動力を高く評価した結果なのでしょう。

藤孝や忠興は、光秀の信長謀殺に至る真意を正確に理解していました
が、その動きに同調しませんでした。

同じく、その初期には光秀の動きを支持した筒井順慶も、藤孝の動きを
みて、光秀のもとを離れます。

天正十年、織田軍の甲斐侵攻戦の主力部隊は惟任軍で、そこに忠興や
筒井順慶ら光秀の親族が加わっています。

明智光秀の前半生やその出自とされる明智氏のことは不明な部分が多
いですが、光秀が歴史上に登場してからの良質な一次史料は、潤沢に
存在します。

次のプログでは、ヘーゲルが述べたように、存在が意識を決定するとの
テーゼのもと、この織田政権末期の社会状況、政治、治世を更に深く、
掘り起こし、光秀が信長謀殺に至った経緯に迫っていこうと思います。


研究者からみれば、随筆といっても過言ではない稚拙な光秀論を長期
にわたり閲覧していただいた皆様、並びに、この場を提供して頂いた
Yahooさんに謝意を表します。





本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か⑥)

 
 
 

光秀以前の明智氏に関係する文書は、沼田土岐氏に残存した「土岐

文書」内で確認できる二十点以外は数点あるのみで、僅かである。

沼田土岐氏の始祖明智定政は父を明智定明、母を菅沼定広の娘と
いい、父定明が土岐嫡流家の内紛に巻き込まれ殺害されると、母の
実家菅沼家を頼り落ち延び、菅沼藤蔵と名乗り、徳川家康の家臣と
して活躍しました。

天正十年、この功で定正は、甲斐に一万石の所領を与えられ、明智
定政と復姓した。その後、秀吉からもその武勇を賞され、土岐氏
名跡を継ぎ、土岐定政と名乗りました。

ここに明智氏関係の文書が残り、その多くは、幕府奉公衆としてのも
のである。明徳元年の土岐康行の乱に際して、この明智氏は将軍足
利義満から袖判御教書を受領している。

その他先祖の明智頼明は同じ奉公衆である、一色材延らと書状のや
り取りをしており、この明智氏の流れが将軍側近として活躍していた
ことがわかります。

この明智頼明の兄が、光秀の祖父光継とする説も存在するが、裏づけ
は全くとれません。

幕府奉公衆明智氏は間違いなく存在しており、一色氏からその軍事力
を期待されており、それを支える所領を当時保持していたと思われます。

それが可児郷であつたかとなると甚だ疑問であり現在特定することは
むずかしい。

いずれにしろ、この明智氏の系統にみられるように、妻木氏においても
徳川氏との関係が見られ、光秀正妻妻木煕子の母は水野信元の養女
であったとの説もあります。

都に居住した幕府奉公衆明智氏の流れは、数派にわかれている。この
あたりも光秀の都での住居と絡めて次に結びつけていきたい。


 
 

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か⑤)




光秀は明智の姓を惟任と改名した後、この姓を新たに光秀の配下にな
った丹後の土豪や、都洛北を所領とする佐竹氏らに名乗らせています。 

佐竹秀慶は明智秀慶と改名し、三宅秀満は明智秀満となった。要する
に光秀には彼を支えるイエはなく、自前の家臣団を創設したのである。

秀吉が羽柴の名字を与え続けたのと原点は同じであるが、秀吉ほどの
狂信性はなかった。

光秀が名のある武士氏族を出自とするならば、そこには家臣団が存在
しているはずであり、それが存在せず、明智名跡すらも捨て、惟任と
なったことからも、彼は明智嫡流家を出自としないことは明白であろう。

ただ光秀が、奉公衆明智氏の末裔である可能性はある。どの流れに
なるのか現在ではわからないが、所領のない武士として存在していた
のだろう。それともたまたま妻木煕子と知り合ったことで明智を名乗った
のでしょうか。

私は光秀が明智の名に執着していることや、本家筋である妻木煕子
との婚姻を考えると、都に居住した明智氏の末裔だったと思えます。

光秀が信長上洛以前から、都に大規模な住居を所有していたことが
山科言継の日記からわかり、その場所が洛北にあったことからもその
可能性は高い。




本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か④)




いずれかの明智郷が、明智氏のいわゆる名字の地であり、先祖重代相伝
の本領であるなら、必ずそこには支配関係が成立しており、なんらかの文書
例えば、所領安堵状などが後世に伝わる可能性は大きい。

中世、武士の本領への執着心、すなわち相伝の所領を失うことは、武士の
名折れでした。

本領には、その氏族を守護する氏神があり、先祖の墓を有する氏寺やその
イエを支配する嫡流家の屋敷がありました。

中世武士社会においてイエ支配権は社会の核であり、有力寺社や守護地頭
あるいは将軍さえその支配に介入できなかった。

すなわち本貫地に根ざし、最初にその土地名を名字とした武士が一族支配
を行った。例えば足利氏は、基本的に他の庶流家、細川氏、桃井氏、今川氏
、畠山氏等に優越し、一族の支配権をもちました。

中世においてはこの単位すなわちイエを支配する者は、一人であり、足利将
軍家とはここに発足の原点があった。徳川将軍家もこの延長上にあることは
自明でしょう。

イエ支配権を持つ武士の屋敷の周り、特に前面にある土地を門田といい共通
してみられるものであり、その大小が身分の高低を示しました。

可児荘には、明智氏に関係する屋敷跡、氏寺、非常時の城塞等の遺跡は現
時点では確認できません。

明智氏と名主等農民上層部との関りあいを示す古文書も確認することができ
ず、奉公衆明智氏の本貫地は別にあるのであろうと推察できます。

土岐氏妻木町には現在でも門田の地名が残り、ここにこの地帯一体を支配し
た氏族の屋敷があったことが確認できます。

氏寺、氏神を始め、大規模な城塞跡が存在し、ここが明智氏の本貫地である
可能性は高い。中世のイエ支配権の成り立ちから考察していくと、妻木氏が明
智氏嫡流家であり、ここに光秀の正妻煕子の出自を重ね合わせることができる。

明智十兵衛光秀が、彼の本貫地である可児ないしは妻木を訪問した記録はあ
りません。

先祖の墓がある氏寺祟禅寺を彼が訪れないのは、彼がこの一族とは一線を画
する氏族ないしは下層武士の出身だったからかもしれません。

明智光秀明智嫡流家をその出自とする説には無理が多い。





本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か③)



遠山とは恵那山のことで、遠山荘は現在の恵那市中津川市全域にあた
り、恵奈郡に含まれ、摂関家を中心とした初期荘園の一つでした。

遠山荘安岐郷は山深い地であり、この地は切り開かれて荘園領主に分
割され、そういった土地を明地といいました。(光秀の出自とその前半生⑥)

遠山庄は高陽院領から近衛家にその支配が移り、鎌倉幕府の成立とともに
加藤景廉が地頭となり、その子景朝が遠山荘に入り名を遠山と変えました。

この後も遠山荘は近衛家により伝領されましたが、遠山氏が地頭請として
この地を実効支配しており、苗木、岩村、明知の三氏は遠山三家と呼ばれ
明知遠山氏は手向郷内明智上下村、荒木村、窪原等を地頭として支配し
ました。

この明智氏は遠山一族として幕府奉公衆となっています。又この明知遠山
氏は江戸幕府旗本として明治まで残存しています。(明智資料㉟)

可児に存在したといわれる明智氏はその実体は見えにくいのですが、遠山
の方は、その存在を史料的にも確認できます。

私個人的には、この明地を本貫地とする明智氏の分流が、妻木に移動し、
土岐明智氏となった考えたいのですが、この説だと、明智氏藤原氏とな
ってしまいます。

このあたりの事は、私自身でこの地に足を運びそれなりに史料を集めまし
たので、別のプログで発表していこうと思っています。



本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か②)




明智氏の本貫地はどこだったのでしょうか。大雑把に書いていきます。
可児明知荘説と恵那遠山荘説の二つあり、現在は可児説が有力です。
 
可児明知荘は藤原摂関家につらなる小野宮家を領家としていたのが、
史料上の初見で、元永元年十二月の右中弁源朝臣雅兼を奏者とする
官宣旨により明智荘が小野宮家から岩清水八幡宮別当家に譲られた
のを確認できます。

その後明知荘では、押領、略奪の類が発生しており、後鳥羽院庁から
在庁官人に対し、下文をもってその停止を命じています。

別当道清は先に院庁に解状を出し窮状を訴えており、院庁の略奪停止
命令文の中で、荘の伝領経緯や関係人の氏名を知ることができます。

この下文の発給年は1204年で、この時点では明智氏の先祖らしき者を
確認することはできません。

その後岩清水文書の中で、近衛家や春日社に関する明知荘の動きが
確認できますが、1240年ごろを最後に明知荘の記述は途絶します。

文書内での関係史料の再見は1413年の明知荘上下郷領家識契状案
ならびに1426年の上下荘代官職請文で、領家の方では法眼調清と法
印保清の名を確認できます。

問題は代官職の方で、代官名は実然、仲然、祐然とあり、地頭の存在
は見られず、明智氏が当時この地を実効支配していた形跡すらみられ
ません。

更に宝徳元年(1449年)十一月、将軍足利義政管領畠山持国をもって
岩清水八幡宮検校法印あてに明智荘の年貢に関して御教書を発給して
おり、当時義政に近侍していた奉公衆明智氏明智荘を支配していなか
ったことがわかります。

長享元年(1487年)十二月、将軍足利義尚は地頭代西竹法印あてに斎藤
妙椿死去後の明智荘の知行を安定させるよう、同じく御教書をもって厳命
しています。

斎藤妙椿明智荘を隠居場としており、自身の死後は、明智荘からの年
貢を八百津にある善恵寺に寄進すると同寺あて書状に述べており、御教
書はそれに対応したものでした。

これらのことから、この明智荘は奉公衆明智氏とは関係性の薄い所であ
ると推察でき、この明地荘は明智氏の本貫地ではないと言えると思います。



本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か①)

 
 

明智光秀は確かに実在した。彼自身が書きしたためたと思われる

書状も多く残存しています。

公的な文書も多く残り、彼自身が記した花押も確認できます。しかし
現在の私たちは、彼の正確な生年月日や享年を、知ることができま
せん。

光秀の父母に関しても諸説あり、その生誕地とともに確たるもの
はなく、家譜なども一切存在していません。

出自といわれる明智氏自体は、良質な一次史料を多く残していませ
んが、「太平記」の中にもその氏族名を確認でき、支族である妻木氏
は、その末流が残存しています。

光秀の妻である妻木煕子が真にその出自を妻木氏とするのかも、こ
の支族の菩提寺である妻木町にある祟禅寺の寺譜からは、確認でき
ません。

公家の日記に登場する妻木には二名あり、光秀の正妻と信長の側近
の女性がそれにあたります。

この二人が姉妹である可能性は高いのですが、それを裏付ける史料
はありません。(光秀戦闘史㊶)

光秀の時代、武士、僧侶を出自とするものは、いわゆる家系図をつくり
その出自の正統性を他に示しました。

そしてその氏族と縁戚関係をもった武士の家は、その事実を家譜のな
かの家系図等に記しました。

又所領内にある寺院や有力名主に宛てた安堵状等の文書が、明智氏
名で現存しているものはなく、その当時の知行地すら確認できません。

要するに、明智氏に関する良質な一次史料は、妻木郷を所領とした明
智妻木氏の中に残存する物がほとんどで、奉公衆明智氏の所領に関し
ては、幕府奉行人奉書一通あるのみで、明智氏嫡流の所領はどこであ
ったかわかっていません。(明智資料㊾)

確かに戦国時代といわれるこの時代には、多くの武士氏族が戦いに敗
れ、所領を奪われました。例えば薩摩の市来氏は島津氏にその所領を
奪われ、一族の市来家朝は大内氏のもとで所領の回復を図っており、
他にも多くの例をみることができます。

しかし、市来氏等はその本貫地に寺社等に宛てた古文書を残しており、
その所領支配を確認できます。

たまたま何らかの理由で明智氏が支配した所領に関する文書が失われ
たとも考えられますが、これは明智氏の本貫地である明智郷がどこにあ
ったかの疑問と深く結びつき、私たちを更なる混乱にひきこみます。

明智(惟任)光秀は、その出自を真に明智氏とするのかは残念ながらな
にも確認できていません。

ただわかつているのは、歴史上に登場したこの人物が、木下秀吉との公
的な連署署書状のなかで、明智光秀と名乗っていることです。

しかし藤吉郎秀吉の木下氏がいかなるものであったかを考えれば、光
秀の名乗った明智氏にも、考えなければいけないことが多くあります。





 

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊸)




光秀の時衆との深いかかわり合いには、彼の生い立ちが寺院そのもの中で

形成されたと考えられることにあるかもしれません。

中世日本は、武家社会と規定されますが、真の支配者は、何重にも積み重ね
られた宗教集団の層であり、公家(こうけ)、武家はその存在を補完する対象で
しかすぎませんでした。

室町幕府の守護制は寺社荘園を担保するものとして、寺社に認可され、全国
に設置されましたが、幕府の弱体化にともない、地方の国人領主らが守護の
地位を侵食し、寺社荘園は、荘園管理が地頭に握られる様(地頭請け)になり
中央寺社勢力の弱体化を招きます。

中世日本の終焉は、信長入京ならびに比叡山延暦寺焼討ちをもってするとあ
ります。都の大寺院の伽藍等は応仁の乱等の戦火でほぼ焼け落ちており、残
存した比叡山上にそびえ立つ大規模建築が、一夜にして信長により消滅したこ
とは、公家や都の人々に新時代の到来を予感させました。

信長後、秀吉、家康により真の武家政権が確立されるのですが、信長の時代
延暦寺のみではなく、信長の最大の敵である一向宗らの宗教勢力との戦い
の時代であり、天正十年時には、寺社勢力をほぼ支配下におきます。

この叡山焼討ちから、高野山攻めまで十数年にわたる、信長と宗教勢力との
戦いに最大の貢献をしたのは光秀でした。

叡山焼討ち後、五十万石といわれる延暦寺所領は光秀に与えられ、興福寺
南都寺院を武力恫喝し織田の完全支配に導いたのも光秀でした。

一向宗との戦いでは、その総大将であった佐久間信盛追放時の書簡で、光秀
の働きを信長は絶賛しています。

これはあまり語られることのない事ですが、信長の宗教政策の中心的補佐役は
光秀であったと私は思っています。

整理して述べますと、新時代を開く信長と、中世最大の政治勢力である寺社そ
してその補完勢力であった、幕府、公家が複雑に絡み合った都、そして地方の
自立し戦国大名化した旧守護勢力や新興の国人勢力の持つ京の位置づけを
見ることで、光秀の信長謀殺の一端が見えるということです。

極論してしまえば、幕府奉行衆・奉公衆が光秀を担ぎ上げ、単独で信長襲撃の
舵を切ったとは考えにくいということです。

言い方をかえれば寺社なくして幕府は存在せず、寺社の持つ観念的中世理論
が光秀を突き動かし、信長打倒に至ったということですが、漠然と述べたこのあ
たりのことを整理して次に続けます。

幕府奉公衆・奉行衆の項は、同朋衆(時衆)との関係性の中で更に深く述べた
かったのですが、別の機会にしたいと思います。

続いて私なりの光秀論を述べてこのプログを終了したいと思います。