惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2016-04-01から1ヶ月間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉗)

10世紀になると、律令的戸籍制度は崩壊し、氏姓は、源・平・藤・橘をは じめ、紀・菅原・大江・賀茂・小野・惟宗・清原等に大きく集約されます。 光秀が名乗った惟任の姓は、光秀以前に、その名を持つ特定の人物の存 在を確認することはむずかしいですが、…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉖)

信長は、右大臣を辞した後も、しばしば上洛します。祇園御玉霊繪を見物 したり、二條屋敷で相撲を興行し、公卿らは残らず見物に訪れています。 又、安土と都のあいだに、新道を整備し往来を活発にしています。 天正六年八月には信長は禁裏に白鳥と塩引を進上…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉕)

天正六年四月、織田信長は右大臣と右近衛大将の両官職を辞します。しかし、 正ニ位の位階は残したままであり、公卿の身分には変化がありませんでした。 前年信長嫡男であり、織田家家督を相続した信忠は、従三位・左近衛権中将 に叙されており、官職を辞退す…

明智資料㊶

天正六年十月二日、信長は南方への出陣の際、安土城において女房衆が、実鏡 院殿御外出をいいことに、豪遊したことを聞き怒り、帰城すると、女房さいと重伝 というものを切り捨てた、と「兼見卿記」内の記述にあります。 御成敗重傅、今度南方之御留守、実鏡…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉔)

天正三年十一月七日、織田信長は権大納言兼右大将に任官します。自ら陣座 を設える気合のいれようで、翌八日には、公家衆悉く、信長のもとを参賀に訪 れます。 信長は十四日に岐阜に帰り、その翌日に村井貞勝より、公家衆に新地を宛がう 旨申し出があります…