惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か⑥)

 
 
 

光秀以前の明智氏に関係する文書は、沼田土岐氏に残存した「土岐

文書」内で確認できる二十点以外は数点あるのみで、僅かである。

沼田土岐氏の始祖明智定政は父を明智定明、母を菅沼定広の娘と
いい、父定明が土岐嫡流家の内紛に巻き込まれ殺害されると、母の
実家菅沼家を頼り落ち延び、菅沼藤蔵と名乗り、徳川家康の家臣と
して活躍しました。

天正十年、この功で定正は、甲斐に一万石の所領を与えられ、明智
定政と復姓した。その後、秀吉からもその武勇を賞され、土岐氏
名跡を継ぎ、土岐定政と名乗りました。

ここに明智氏関係の文書が残り、その多くは、幕府奉公衆としてのも
のである。明徳元年の土岐康行の乱に際して、この明智氏は将軍足
利義満から袖判御教書を受領している。

その他先祖の明智頼明は同じ奉公衆である、一色材延らと書状のや
り取りをしており、この明智氏の流れが将軍側近として活躍していた
ことがわかります。

この明智頼明の兄が、光秀の祖父光継とする説も存在するが、裏づけ
は全くとれません。

幕府奉公衆明智氏は間違いなく存在しており、一色氏からその軍事力
を期待されており、それを支える所領を当時保持していたと思われます。

それが可児郷であつたかとなると甚だ疑問であり現在特定することは
むずかしい。

いずれにしろ、この明智氏の系統にみられるように、妻木氏においても
徳川氏との関係が見られ、光秀正妻妻木煕子の母は水野信元の養女
であったとの説もあります。

都に居住した幕府奉公衆明智氏の流れは、数派にわかれている。この
あたりも光秀の都での住居と絡めて次に結びつけていきたい。