2014-06-01から1ヶ月間の記事一覧
各時代を担った政権内部には、調整役として重要な位置を占める人々が 存在しました。 豊臣秀長、足利直義、そして現代でも本田宗一郎のもとには、藤沢武夫 が名補佐役としていて、その企業躍進に貢献しました。 豊臣秀長はその代表的な人物で、金銭への執着…
山科家は京都山科荘を家領とし、羽林家の家格であった。代々朝廷の 財政を担当する家柄であり、言継も又その最高責任者である内蔵頭で ありました。 この時代、朝廷の財政は困窮の極みにあり、言継は資金作りの為に全 国を駆け巡ることとなります。 織田信長…
「言継卿記」の永禄十三年(元亀元年)二月三十日(旧暦)付けの日記 に、信長上洛の記載があります。 信長は岐阜城を出発して、申刻都に到着します。 織田弾正忠信長申刻上洛、公家奉公衆、或江州或堅田、坂本、山中 等ヘ迎二被行ーーーーーーー 則明智十兵…
織田氏にとって、長宗我部氏は長期間にわたり、友好的な関係が続いた 数少ない間柄でした。 天正三年、土佐一国を統一した元親は、四国の他の領主との対抗上、成 長著しい信長に接近します。 信長はそれに対し、元親嫡男弥三郎の烏帽子親となり、信の一字を…
元親が斉藤利三にあてた書状は、利三の元には届いていなかったの ではと思われます。 恐らくは、元親の家臣が、斉藤利三に届くよう、石谷光政の元に持参 したものが、利三に届く事無く、石谷家の文書群の中に残ってしまった のではないでしょうか。 阿波国の…
昨日(23日)、岡山市の林原美術館と、共同研究する岡山県立博 物館は、長宗我部元親が四国の領土をめぐり、天正十年六月の時 点で、織田信長の命令に従う意向である、と記した手紙が「石谷家 文書」の中から発見されたと発表した。 一月十一日付書状では…
吉田兼見と明智光秀との出会いは、細川藤孝を介してのものだと思わ れます。 兼見は吉田兼右の子として誕生します。兼右は少納言清原宣賢の次男 で、吉田兼満の養子となり、吉田家を継ぎます。 細川藤孝を生んだ、智慶院は清原宣賢の娘であり、藤孝と兼見は…
光秀が折りにふれて訪問していた、吉田兼見の住まいは、かなりの豪邸 であったようです。 母屋は当時は高級品の瓦葺きの二階建てで、表の座敷から裏、奥、茶 湯、小座敷とつながり、夫人が日常を過ごす居間、台所その他使用人の 部屋がありました。 又屋敷内…
(光秀とその時代㉓)に述べたように、信長は細川藤孝に、足利義昭 からの離反を評価し、桂川西岸の土地を与えます。 この時の、信長の書状の中に、一職という言葉が始めて現れます。 この一職とは、地域的支配をまかされた、織田家家臣がその地域の 農民を…
天正七年八月、光秀は赤井忠家の籠る黒井城を落城させます。これによ り光秀の丹波平定戦は完了します。 ここに至るまでの道程には厳しいものがあった。天正四年一月の黒井城 攻めでは、波多野一族の離反にあい、光秀軍は大敗を喫します。 かろうじて都に逃…
非合法な殺戮をもって、反対者を弾圧して行う政治形態を恐怖政治という。 又統治する民衆に恐怖感を持たせる事で、自らの権力を保持する政治手法 でもあります。 信長の性格からくるこの統治方法は、その家臣たちにも拡大再生産されて とどまるところを知ら…
元亀二年、岩村城主遠山景任は病死します。後継者のなかった遠山家は 信長六男御坊丸を養子に貰い受け、景任正妻お直(おつや)の方が後見 となり女城主が誕生します。 お直の方は、信長の父信秀の妹であり、叔母にあたり、織田家にとり、この 岩村の地が、…
岩村城は日本三大山城として有名です。元亀元年、武田信玄家臣秋 山信友は、岩村城に近い上村に侵入します。 それに対し織田方は、岩村城主遠山景任を総大将とし、小里氏、妻木 氏そして三河の奥平氏、菅沼氏らが参陣し対抗します。 数にまさる遠山軍でした…
光秀正妻煕子の実母は、水野信元の姪であり、その養女となり妻木家に嫁 いだといいます。 水野信元の異母妹は、松平家康の生母於大であり、信元は家康の叔父に あたります。 この水野家は、織田家と密接な協力関係を築いており、信元の代になると 信長とのあ…
信長による佐久間信盛父子に対する粛清劇は、まさしく電撃的に行われ た感があります。 付き従う数名の家臣とともに、高野山へと追い立てられ、そこにも留まる ことができず、信盛は十津川村武蔵で最後を迎えます。 しかしよく考えてみれば、この事件も不自…
佐久間信盛追放後の畿内において、摂津衆、大和衆らを、与力として 統率する事になったのが、光秀でありました。 「寛政重修諸藩譜」の佐久間信勝(正勝)の項には、 明智光秀ガ讒ニヨリ父信盛トトモニ高野山ニノガルル とあり、光秀が信盛父子を讒言により…
「信長公記」によれば、天正八年八月、大阪に着いた信長は、佐久間信盛に 対して、十八ヶ条からなる折檻条を自分でしたため、松井長閑らに信盛のも とへ持参させ、遠国への退去を命じます。 「佐久間軍記」はこう記しています。 信長公大阪御進發、城中ヲ見…
天正六年八月、松平家康とその嫡男信康の対立は決定的なものとなった。 家康は大軍を率いて、浜松から岡崎へと進みます。その報を聞き、信康は 岡崎から大浜へ退避し、抵抗の意志のないことを示します。 これでもって信康追放が完了したとして、信長側近堀秀…
大溝城は、天正六年、明智光秀の縄張りにより、織田信澄が、磯野氏居城 跡に築城しました。 光秀は築城の名人であったといいます。この城も坂本城同様琵琶湖とその 内湖を、巧妙に取り込んだ水城でした。 光秀がどのようにして築城技術を身につけたかは定か…
描かれている人物は、足利尊氏として、長く流布していましたが、近年の 研究によれば、高師直かその一族ではないかとの説が有力です。 濃州余談⑲と同じく、実戦にのぞみ、戦闘態勢に入った武将が太刀を肩 に担ぎ、兜を着用していないのがわかります。兜は弓…
天正十年、四国長宗我部氏討伐軍の中に、副将として織田信澄がいました。 信澄は幼名を坊丸といい、信長の実弟信行の嫡男として生まれます。 信行は二度にわたり、信長打倒の企てを起こしますが、柴田勝家の裏切り により事が露見し、謀殺されます。坊丸は信…
長宗我部氏は、渡来人中の有力氏族である秦氏の末裔である、と伝えられ ていますが確かな事は不明です。 鎌倉時代、信濃国から土佐国へ移った秦能俊が長岡郡曾部郷に住み着き、 長曾我部氏を称したといわれます。古来より、土佐国の国府はここにありま した…
斉藤利三の実兄である石谷孫九郎(頼辰)は、永禄九年頃たびたび山科 言継邸を訪れています。 最初は、中御門資胤のお供で訪れていましたが、季節の新茶や若鮎を送 って気に入られたのか、頻繁に言継邸を訪れ、雑談をしたり、雙六に興じ ています。 この雙六…
織田信長の舅斉藤道三は、斉藤義龍との美濃長良川での戦いに破れ 戦死します。 その時、鷺山の道三居城には、石谷(いしがい)対馬守の手勢が多く残 っていました。石谷対馬守は道三の死を聞き、兵士を逃がした後、義龍 軍と最後の一戦を試み、見事な戦死を…
光秀の後半生は、戦いの連続であった。まさしく戦いが光秀の 日常であったといえる。それなりの自負もあっただろう。暗闇の 中、都へ軍を進める光秀の胸中に去来した感情は、高揚感か それとも、どすぐろい陰湿な復讐心であったかはわからない。 しかし、光…
光秀の時代、実際の戦場はどのような様子だったのでしょうか。 以下の絵図は関ヶ原の戦の時のものですが、実際の戦闘の様 子を克明に知ることができます。 抜刀している武士達は、徳川家康の馬廻り衆で、家康を護衛しな がら移動しているところです。自分の…
明智光秀とこの人物の事を、現代の我々は呼び習わしています。永禄十二 年(1569年)、明智十兵衛尉として歴史の舞台に登場した、この人物は天正 三年(1575年)、惟任日向守光秀と名を変え天正十年(1582年)最後を迎え るまでこの姓と名を使います。(明智…
細川藤孝は、その折々の出来事に対して、狂歌を詠んでいます。荒木村重 が有岡城を脱出した後の、信長による残された荒木一族、家臣に対する仕 置きの様子をこう詠んでいます。 荒木殿 国ヲバ人ニ クレハ鳥 アヤシク見ユル 機物ノ袖 残された侍女達百二十二…