惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2014-06-01から1ヶ月間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑯)

各時代を担った政権内部には、調整役として重要な位置を占める人々が 存在しました。 豊臣秀長、足利直義、そして現代でも本田宗一郎のもとには、藤沢武夫 が名補佐役としていて、その企業躍進に貢献しました。 豊臣秀長はその代表的な人物で、金銭への執着…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑮)

山科家は京都山科荘を家領とし、羽林家の家格であった。代々朝廷の 財政を担当する家柄であり、言継も又その最高責任者である内蔵頭で ありました。 この時代、朝廷の財政は困窮の極みにあり、言継は資金作りの為に全 国を駆け巡ることとなります。 織田信長…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑭)

「言継卿記」の永禄十三年(元亀元年)二月三十日(旧暦)付けの日記 に、信長上洛の記載があります。 信長は岐阜城を出発して、申刻都に到着します。 織田弾正忠信長申刻上洛、公家奉公衆、或江州或堅田、坂本、山中 等ヘ迎二被行ーーーーーーー 則明智十兵…

濃州余談㉗

織田氏にとって、長宗我部氏は長期間にわたり、友好的な関係が続いた 数少ない間柄でした。 天正三年、土佐一国を統一した元親は、四国の他の領主との対抗上、成 長著しい信長に接近します。 信長はそれに対し、元親嫡男弥三郎の烏帽子親となり、信の一字を…

濃州余談㉖

元親が斉藤利三にあてた書状は、利三の元には届いていなかったの ではと思われます。 恐らくは、元親の家臣が、斉藤利三に届くよう、石谷光政の元に持参 したものが、利三に届く事無く、石谷家の文書群の中に残ってしまった のではないでしょうか。 阿波国の…

濃州余談㉕

昨日(23日)、岡山市の林原美術館と、共同研究する岡山県立博 物館は、長宗我部元親が四国の領土をめぐり、天正十年六月の時 点で、織田信長の命令に従う意向である、と記した手紙が「石谷家 文書」の中から発見されたと発表した。 一月十一日付書状では…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑬)

吉田兼見と明智光秀との出会いは、細川藤孝を介してのものだと思わ れます。 兼見は吉田兼右の子として誕生します。兼右は少納言清原宣賢の次男 で、吉田兼満の養子となり、吉田家を継ぎます。 細川藤孝を生んだ、智慶院は清原宣賢の娘であり、藤孝と兼見は…

明智資料㉒

光秀が折りにふれて訪問していた、吉田兼見の住まいは、かなりの豪邸 であったようです。 母屋は当時は高級品の瓦葺きの二階建てで、表の座敷から裏、奥、茶 湯、小座敷とつながり、夫人が日常を過ごす居間、台所その他使用人の 部屋がありました。 又屋敷内…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑫)

(光秀とその時代㉓)に述べたように、信長は細川藤孝に、足利義昭 からの離反を評価し、桂川西岸の土地を与えます。 この時の、信長の書状の中に、一職という言葉が始めて現れます。 この一職とは、地域的支配をまかされた、織田家家臣がその地域の 農民を…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑪)

天正七年八月、光秀は赤井忠家の籠る黒井城を落城させます。これによ り光秀の丹波平定戦は完了します。 ここに至るまでの道程には厳しいものがあった。天正四年一月の黒井城 攻めでは、波多野一族の離反にあい、光秀軍は大敗を喫します。 かろうじて都に逃…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑩)

非合法な殺戮をもって、反対者を弾圧して行う政治形態を恐怖政治という。 又統治する民衆に恐怖感を持たせる事で、自らの権力を保持する政治手法 でもあります。 信長の性格からくるこの統治方法は、その家臣たちにも拡大再生産されて とどまるところを知ら…

濃州余談㉔

元亀二年、岩村城主遠山景任は病死します。後継者のなかった遠山家は 信長六男御坊丸を養子に貰い受け、景任正妻お直(おつや)の方が後見 となり女城主が誕生します。 お直の方は、信長の父信秀の妹であり、叔母にあたり、織田家にとり、この 岩村の地が、…

濃州余談㉓

岩村城は日本三大山城として有名です。元亀元年、武田信玄家臣秋 山信友は、岩村城に近い上村に侵入します。 それに対し織田方は、岩村城主遠山景任を総大将とし、小里氏、妻木 氏そして三河の奥平氏、菅沼氏らが参陣し対抗します。 数にまさる遠山軍でした…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑨)

光秀正妻煕子の実母は、水野信元の姪であり、その養女となり妻木家に嫁 いだといいます。 水野信元の異母妹は、松平家康の生母於大であり、信元は家康の叔父に あたります。 この水野家は、織田家と密接な協力関係を築いており、信元の代になると 信長とのあ…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑧)

信長による佐久間信盛父子に対する粛清劇は、まさしく電撃的に行われ た感があります。 付き従う数名の家臣とともに、高野山へと追い立てられ、そこにも留まる ことができず、信盛は十津川村武蔵で最後を迎えます。 しかしよく考えてみれば、この事件も不自…

明智資料㉒

佐久間信盛追放後の畿内において、摂津衆、大和衆らを、与力として 統率する事になったのが、光秀でありました。 「寛政重修諸藩譜」の佐久間信勝(正勝)の項には、 明智光秀ガ讒ニヨリ父信盛トトモニ高野山ニノガルル とあり、光秀が信盛父子を讒言により…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑦)

「信長公記」によれば、天正八年八月、大阪に着いた信長は、佐久間信盛に 対して、十八ヶ条からなる折檻条を自分でしたため、松井長閑らに信盛のも とへ持参させ、遠国への退去を命じます。 「佐久間軍記」はこう記しています。 信長公大阪御進發、城中ヲ見…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑥)

天正六年八月、松平家康とその嫡男信康の対立は決定的なものとなった。 家康は大軍を率いて、浜松から岡崎へと進みます。その報を聞き、信康は 岡崎から大浜へ退避し、抵抗の意志のないことを示します。 これでもって信康追放が完了したとして、信長側近堀秀…

濃州余談㉒

大溝城は、天正六年、明智光秀の縄張りにより、織田信澄が、磯野氏居城 跡に築城しました。 光秀は築城の名人であったといいます。この城も坂本城同様琵琶湖とその 内湖を、巧妙に取り込んだ水城でした。 光秀がどのようにして築城技術を身につけたかは定か…

濃州余談㉑

描かれている人物は、足利尊氏として、長く流布していましたが、近年の 研究によれば、高師直かその一族ではないかとの説が有力です。 濃州余談⑲と同じく、実戦にのぞみ、戦闘態勢に入った武将が太刀を肩 に担ぎ、兜を着用していないのがわかります。兜は弓…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑤)

天正十年、四国長宗我部氏討伐軍の中に、副将として織田信澄がいました。 信澄は幼名を坊丸といい、信長の実弟信行の嫡男として生まれます。 信行は二度にわたり、信長打倒の企てを起こしますが、柴田勝家の裏切り により事が露見し、謀殺されます。坊丸は信…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常④)

長宗我部氏は、渡来人中の有力氏族である秦氏の末裔である、と伝えられ ていますが確かな事は不明です。 鎌倉時代、信濃国から土佐国へ移った秦能俊が長岡郡曾部郷に住み着き、 長曾我部氏を称したといわれます。古来より、土佐国の国府はここにありま した…

濃州余談⑳

斉藤利三の実兄である石谷孫九郎(頼辰)は、永禄九年頃たびたび山科 言継邸を訪れています。 最初は、中御門資胤のお供で訪れていましたが、季節の新茶や若鮎を送 って気に入られたのか、頻繁に言継邸を訪れ、雑談をしたり、雙六に興じ ています。 この雙六…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常③)

織田信長の舅斉藤道三は、斉藤義龍との美濃長良川での戦いに破れ 戦死します。 その時、鷺山の道三居城には、石谷(いしがい)対馬守の手勢が多く残 っていました。石谷対馬守は道三の死を聞き、兵士を逃がした後、義龍 軍と最後の一戦を試み、見事な戦死を…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常②)

光秀の後半生は、戦いの連続であった。まさしく戦いが光秀の 日常であったといえる。それなりの自負もあっただろう。暗闇の 中、都へ軍を進める光秀の胸中に去来した感情は、高揚感か それとも、どすぐろい陰湿な復讐心であったかはわからない。 しかし、光…

濃州余談⑲

光秀の時代、実際の戦場はどのような様子だったのでしょうか。 以下の絵図は関ヶ原の戦の時のものですが、実際の戦闘の様 子を克明に知ることができます。 抜刀している武士達は、徳川家康の馬廻り衆で、家康を護衛しな がら移動しているところです。自分の…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常①)

明智光秀とこの人物の事を、現代の我々は呼び習わしています。永禄十二 年(1569年)、明智十兵衛尉として歴史の舞台に登場した、この人物は天正 三年(1575年)、惟任日向守光秀と名を変え天正十年(1582年)最後を迎え るまでこの姓と名を使います。(明智…

濃州余談⑱

細川藤孝は、その折々の出来事に対して、狂歌を詠んでいます。荒木村重 が有岡城を脱出した後の、信長による残された荒木一族、家臣に対する仕 置きの様子をこう詠んでいます。 荒木殿 国ヲバ人ニ クレハ鳥 アヤシク見ユル 機物ノ袖 残された侍女達百二十二…