惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2014-08-01から1ヶ月間の記事一覧

明智資料㉕

明智光秀が織田家臣時代に、戦場で用いた総大将としての存在を示す 馬印は、資料的には江戸明暦年間に編纂された「御馬印揃(年鑑)」の 中で確認できます。 光秀の大馬標は「白紙の四手しない」といい、「森家先代実録」や「信長 記」に残る記述によっても…

濃州余談㉟

「武功夜話」は、土豪前野家の足跡を記録した文書群を、まとめた書物の 名称です。前野家十五代雄善の長男吉田孫四郎によって、編纂されたと いいます。(江南市HPより) この書物に関しては、ご存知のように、多くの問題点が指摘されています が、ここで…

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑰)

「明智軍記」内の、長山城落城の記述を要約すると、以下のようにな ります。 その頃、義竜の家臣の中に明智光安がいた。明智頼兼の七代目と なり、明智光継の次男で兄光綱の死後、東美濃の明智という所に 居城をもうけていました。 義竜の信頼厚く、その結び…

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑯)

「武功夜話」内にある、「弘治二年美濃可児郡明智城出入りの事」について その内容を要約して述べます。 東美濃に関して、織田信秀は野心をもっていました。可児郡の土田村には 冶左衛門を当主とする土田家という古くからある家があり、山に砦をつくり、 信…

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑮)

明智氏の名前が歴史上に現れるのは、「太平記」の中の第二十五巻 「住吉合戦事」において、明智兵庫助が楠正行と合戦したとの記述が 最初となります。 同書には、第二十六巻「四条畷合戦事」、第二十七巻「御所囲事」、第 三十四巻「新将軍南方進発事」の中…

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑭)

「実隆日記」によると、文明十六年(1484年)三月十日に、九代将軍足利 義尚の連歌会に、土岐明智頼宜が出席したとあります。 又明応七年(1498年)十月に、土岐明智玄宜、同政宜が連歌会に出席し たと、同じく記されています。 長亨元年(1487年)の、義尚…

濃州余談㉞

明治時代の著名な建築家、妻木頼黄は上総妻木氏千石の出身です。 父頼功は、上郷妻木氏五百石から養子に入りました。 妻木氏嫡流七千五百石は、無嗣断絶し、その領地の大部分は天領 となりますが、妻木村上郷は妻木氏支流に残され、上郷妻木氏とな りました…

濃州余談㉝

二年ほど前、岐阜県土岐市妻木町を訪問しました。かっては陶磁器製造の 町として賑わったといいます。三方を山に囲まれ、町中心に妻木川が流れ ています。 町の六十代の方から色々お話を聞くことができました。 妻木町で生まれた人ならば、誰もが、妻木の殿…

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑬)

誠仁親王は、正親町天皇の第五皇子であったといわれる。猶子の多い 正親町帝の子の中で、実子といわれるが確証はありません。 誠仁親王の第五皇子、五宮は信長の猶子となり、信長と誠仁親王の関 係性の深さを窺わせます。 本能寺での戦闘終了後、明智軍は信…

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑫)

織田氏の領国支配の実態は、よくわかっていません。複雑な土地支配形態を 一元化し、信長から支配権を委ねられた武将が、強力な軍事力を背景にして 、税の徴収権、裁判権、徴兵権を行使したのでしょうが、その実態はいまだ闇 の中です。 軍事面においては、…

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑪)

江戸時代には、士農工商の身分制があったといわれるが、これは間違い で、身分は武士と武士以外のふたつに分かれ、これらの外にエタ、非人が あり、武士上中層部のみが固定化され、その他は流動的でありました。 農民が商人となり、所払いとなった農民、商人…

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑩)

信長は身体頑強な人であった。記録に残されている病歴には、頭痛がある ぐらいで、他は見受けられません。 上京して、御所へ参内する予定だったが、信長は頭痛がひどく取りやめにな ったと「言継卿記」内に記されています。 さすがに、子供の頃から、水練、…

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑨)

統一政権を喪失したこの時代は、幕府、守護、地頭、寺社、国人領主そし て農村までもが独自の裁判権を保持し、犯罪人や共同体の利益に反する 者に対して死刑を実施しました。 村同士での水利権や山入権を巡っての争いでは、調停が不調に終われば 農民は武装…

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑧)

借金を、返さない、返せない人々がいたことは、光秀の時代も、現代 と同様でした。 貸主は訴訟による債権回収が、困難であると判断すると、寺社等の 権門に代理で訴訟をしてもらいます。 勝訴すれば、寺社側は報酬を得ます。これを「寄沙汰」といいました。 …

濃州余談㉜

兄足利義輝が、三好三人衆らに殺害され、義昭も命を狙われます。 義昭は奈良をひそかに脱出し、和田惟政を頼ります。 惟政とともに、六角氏を頼りますが、その対応は冷淡なものでした。 その後、越前朝倉氏のもとに赴きますが、優柔不断な朝倉義景は、 義昭…

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑦)

天正元年(1573年)四月一日、織田信長は、吉田兼見に対して父兼右 の「南都滅亡時には、北嶺も滅亡し、都に災いが起こる」との発言はい かなる根拠によるものかと問いただします。 兼見は「父兼右の発言は根拠なきもの」と答えます。 信長はこれを「奇特」…

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑥)

永禄三年(1560年)五月十九日未明、今川軍は織田方の丸根、鷲津両 砦に向けて、攻撃を開始しました。 前日の軍議は、軍ノ行ハ努努コレナク、色六世間ノ御雑談マデニテーー であり、重臣たちは、運ノ末ニハ、智慧ノ鏡モ曇ルトハ、比ノ節ナリーー と信長を嘲…

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑤)

実母に疎まれ、弟には背かれ、重臣から侮られた、信長を支えたのは 言い方がわるいですが、彼の悪がき仲間でありました。 信長は彼らを組織し、軍事教練を施し、長槍部隊を創設し、鉄砲の訓 練に明け暮れました。 前田利家との男色関係に見られるように、信…