惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2015-02-01から1ヶ月間の記事一覧

続濃州余談②

永禄十年(1567年)、正親町天皇は美濃国を支配下においた信長 に対して、尾張、美濃にある天皇領の回復や御所の修繕費そして誠 仁親王の元服費用の捻出を要請します。 これが天皇と信長の長い付き合いの始まりでした。 翌年信長は足利義昭を奉じて上洛…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ⑦)

天正九年十月廿九日、信長は下野国の豪族皆川広照宛に朱印状を 発給しています。 皆川氏は小山氏の流れを汲む名門であり、広照は堀秀政を取次とし て名馬を信長に献上しました。 馬一疋到来候、誠遼遠之懇志、悦喜無他候、殊更葦毛別而相叶 心候、馬形・乗以…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ⑥)

天正九年正月六日、細川藤孝は兼見邸を訪問し、その後坂本城の光秀 のもとに赴きます。 長岡兵部大輔来、--今日於坂本惟任日向連歌興行之由雑談ーー及 深更出京了 と「兼見卿記」にあるように、光秀の連歌興行に参加するのが目的でした が、藤孝の近江滞在…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ⑤)

天正九年三月一日、正親町天皇は、上臈御局(花山院家輔娘)に勅 書を持参させ、信長のもとに派遣しました。 信長を「左府二被仰出由」、すなわち左大臣に任じるとの勅定でし た。(立入左京亮入道隆佐記) 信長は天正六年四月、右大臣を辞しており、その折…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ④)

天正八年八月、信長は佐久間信盛、信栄(定栄)父子に自筆の覚 書を与え追放します。 抗弁する術もなく二人は高野山に追いやられますが、織田家にとり 最重要な事柄であり、秘密裏に遂行されました。 佐久間信盛追放劇はすでに詳しく述べています。(光秀と…

続濃州余談①

天正四年正月、信長は安土城の築城を家臣に命じます。前年十一月 には、織田家の家督を信忠に譲り渡し、岐阜城から、茶道具のみを持 参して、佐久間信盛の屋敷に移っています。 信長の安土城築城への意気込みが伝わってきます。 津田坊(織田信澄)は、信長…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ③)

天正八年、丹波・丹後平定を終えた光秀は、坂本城を大規模に改修 します。ここ近江志賀郡一帯が、明智一族の本拠地であるという認 識を強く持っていたのでしょう。(光秀戦闘史Ⅱ①) 丹波では、平定後も一部土豪の反抗がみられ、完全制圧に至るのは 八月頃で…

濃州余談㊿

天正七年正月十七日、吉田兼見は光秀を坂本に訪ねています。 (光秀戦闘史㊽) その留守宅に山科言継の子言経が、禁中の御使いで訪れますが 吉田預ヘ、禁中爲御使罷向了、坂本ヘ罷向云々 とあるように、あいにく坂本ヘ出かけ留守であったと「言経卿記」 に記…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ②)

天正八年正月十七日、播磨三木城は落ち、別所長治は自害しました。 長い戦いに幕が降ろされ、播磨はほぼ平定されます。 織田方の海上封鎖は本願寺の補給路を奪い、播磨からの陸路での 補給までも断たれた本願寺は孤立の色を深めました。 前年十二月の荒木村…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ①)

天正八年正月十七日、吉田兼見は祭礼の為、光秀の居城、坂 本城を訪れます。 惟任日向守爲礼下向坂本、路次風寒以外也、午刻着津、面 會、百疋持参、妻木五十疋・御祓、下向安土、預置奏者 とあるように、寒風の中、正午湖畔にある坂本城に到着します。 恐ら…