2014-10-01から1ヶ月間の記事一覧
元亀元年七月四日、信長は上洛します。 「兼見卿記」によると 申刻信長上洛、馬三騎俄入洛也 とあり、馬廻り三騎とともにだしぬけに上洛したようです。信長らし い行動ですが、浅井、朝倉と一戦交えている最中で、無用心きわ まりない話です。兼見が驚いてい…
元亀二年九月三十日、信長は、寺社や惣中に対して割符を作成し、 公武御用の為、年貢米の上納を指示します。 公家領の多くは、寺社や国人領主らにより押領され、彼らの生活を 圧迫していました。この年叡山を焼き討ちした信長は、寺社等への 締めつけを強化…
光秀の時代、囲碁は多くの武将に好まれ、織田信長も愛好家の一人で した。その影響か、村井貞勝には囲碁にまつわる記述が多く見られ、「 兼見卿記」の中でも、吉田兼見との対戦の様子が数多く残されています。 天正四年四月十二日、 向村長、將碁 とあるよう…
天正七年九月十一日信長は上洛します。これは摂津への出陣に備えての 上洛でしたが、吉田兼見は「兼見卿記」の中の九月二十六日付けで、こう 記しています。 惟任姉妻木在京之間罷向、双瓶・食籠持参、他行也、渡女房館皈、 向村長、將碁、 光秀の姉が都にい…
明智光秀本人の名前が、信長上洛以前、足利将軍家関係あるいは奉 公衆、奉行衆として、資料の中に記されることはありませんでした。 しかし、土岐明智氏が奉公衆としての家格があり、それが世襲されて いる事を考えれば、信長上洛以後の義昭のもとでの活躍を…
奉公衆の出自は、文安元年(1444年)から明応三年(1494年)まで の50年間に限ってみれば、最も多いのは土岐一族で、明智氏、石谷 氏、小里氏、原氏、揖斐氏など十四氏を確認できます。 続いて近江の佐々木一族が多く、井尻氏、塩谷氏、大原氏、吉田氏な ど…
明応二年細川政元は、奉公衆を引き連れて、河内の畠山基家を討伐に向 かった十代将軍義材に対し、クーデターを敢行します。 この企てには、日野富子も参画し、政所執事伊勢貞宗の指示で、将軍傘 下の軍勢は、義材を残して都へ引き揚げます。 この後の顛末は…
六代将軍足利義教は、父義満が創設した足利将軍家直属の軍事力で ある奉公衆制度を拡充させ、将軍権力の基盤にすえました。 兄足利義持は、将軍職を子の義量に譲った後も、政冶の実権を保持し 続けますが、溺愛した子義量は若くして亡くなり、義持は後継者を…
九代将軍足利義尚の時代には、まだ大軍を率いて遠征できる実力を 幕府は保持していましたが、十三代将軍足利義輝の時代になると、長 引く戦乱の影響などで、その権威は形骸化していました。 義輝は、将軍の権威を復活すべく画策し、政所を牛耳る伊勢氏を討伐…
㈗ 近江へ向かった義尚の軍は、錚々たる陣容であったことがわかります。 明智の名は四番衆の中にあります。 長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到
奉公衆とは、足利将軍家に直属する軍事組織であり、足利将軍の被官であり 、将軍に近侍し、その警護にあたり、戦いがあれば馬廻りとして、軍の中核を 形成しました。 九代将軍足利義尚は、奉公衆をひきつれ、守護勢力の助力をえて、六角氏の 討伐に向かいま…
天正八年正月十三日に、光秀が家臣六人宛に発給した書状を再度見て いくとその中に 面々知行ヘ入立 とあります。(四人の天下人㊴) これは、めいめい知行地へはいりこんで との意味であり、彼らが光秀 より敵方から没収した土地を、所領として与えられた事…
丹波国には波多野氏、赤井氏、内藤氏等の有力な国人領主が存在し 、宍人城を拠点とする小畠氏もその一つでありました。 小畠氏は細川氏の被官としてこの地に勢力を拡大しました。 その後は三好氏、波多野氏に従属していましたが、信長が義昭を奉じ て上洛す…
この書状は、織田信長が丹波国の国人領主である矢野弥三郎 宛に出した朱印状です。 天正四年四月十三日に発給されたと考えられます。内容は、 矢野氏の所領は安堵し、所領での問題は惟任(光秀)と相談 し、忠節に励むことを命じています。 困難な局面にあっ…
明智光秀は天正七年十月に丹波国を平定します。翌天正八年正月十三 日、丹波に所領を持つ家臣に対して、以下の書状を発給します。 来初秋西国可為御陣旨、被仰出侯之条、当春国役、為十五日普請、 面々知行入立、開作之儀、可申付侯、-----------…
明智家家臣として、領内で文書を発給した人物は、明智秀満、齋藤 利三以外には、三沢秀儀があります。 この三人は光秀重臣として、史料の中でその実在が確認できます。 天正四年二月十日付けの、光秀の曾根村惣中宛の、諸役務を免除 する書状に秀儀は添書き…
齋藤利三は、丹波国黒井城の城代として、その周辺地域の支配を 光秀から委ねられていました。 白毫寺には、天正八年七月二十三日付けで、寺へ戻った僧侶に対 して諸夫役を免除する旨の、齋藤利三による発給文書が残っていま す。 春日局(福)は、ここ黒井城…
本能寺襲撃後、四ヶ月を経ずして書かれた「惟任退治記」の中で、作 者大村由己は齋藤利三の事を、その最後とともにこう述べています。 利三平生所嗜。非啻武藝。外専五常會朋友。 内翫花月。學詩歌。今何為逢子戸此難。 秀吉の宣伝相大村由己が、利三の事を…
奉公衆の「衆」とは、ひとかたまりの集団の意味であり、「蜷川親俊 日記」の、三年間の記述の中から、御供衆、御相伴衆、与力衆、公 家衆、奉行衆など数多くの「衆」がみられ、その中に、奉公衆に関す る記述があります。 これと「永禄六年諸役人附」(明智…
室町幕府政所代蜷川親俊は、曾祖父、祖父同様に日記を残して います。 「蜷川親俊日記」はその大部分が失われており、完全に残ってい るのは、天文七年(1538年)、八年、十一年の三年にすぎません が、この時代の室町幕府の行事、そして主人政所執事伊勢貞…
「細川家記」によれば、ある書物によると、秀満は濃州の生まれであ り、五器塗師の子供であったとあります。 他書からの引用であることがわかりますが、同書によれば、三宅弥平 次(秀満)は容貌が美しく、光秀の寵愛を受け、成長して後は、その利 発さと勇…
明智秀満が使用したと伝わる刀と鎧兜が東京国立博物館にあ ります。 共に華美な装飾はないですが、実用性の中にも上品さが感じ られます。 刀剣好きな光秀から拝領した一振りだったのかもしれません。 鎧兜も無駄のない戦闘本位のものですが、ところどころに…
明智秀満という人物も、光秀同様謎の多い人物で、その一生はよくわ かっていません。 この人物こそが天海であるという説があります。 又土佐の坂本龍馬は明智秀満一族の末裔であると自称しています。 湖水渡りは有名であり、版画の主要なモチーフのひとつで…
この書状は、丹波国宇津領にある瀬竜、黒田両村の年貢米の 請取状です。 宇津領には、周山城があり、明智光忠が城代としていたので すが、この書状は、明智秀満が捺印し、その上に明智光秀が 花押をいれるという、あまり見られない形式となっています。 天正…
明智光秀家臣団の成立過程およびその構成等は、ほとんど分かって いません。 しかし個別の家臣の動向については、当時の史料からも知る事がで きます。 本能寺襲撃時、光秀から信任され、重要な任務をおったのが、明智秀 満、斉藤利三の二人であることには疑…