惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2017-02-01から1ヶ月間の記事一覧

続濃州余談⑮

後北条氏の祖である北条早雲は、伊勢盛時といい、伊勢氏嫡流家に 近い備中伊勢家を、その出自とする説が確実視されています。 早雲の父盛定は、政所執事伊勢貞親と共に、足利義政の側近として、 史料内で確認できます。早雲の母は貞親父貞国の娘であり、早雲…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑨)

伊勢貞興は幼名を、三郎、与三郎、熊千代と言い、永禄十一年十月二十 二日の「言継卿記」内の記述で、その存在が初めて確認されます。 足利義昭が十八日将軍宣下を受け、その返礼の為参内した折、貞興は 伊勢三郎七歳、非御供 とあるように、幼少の為、御供…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑧)

奉行衆とは、鎌倉幕府以来の法曹事務官僚の家柄の者の集団であり政 所におけるその出自は固定化されていました。 彼らは、足利氏政権樹立時には、足利直義により統率されており、そ の後は、伊勢氏を執事として管領の管轄下にありました。 康正年代に、管領…