惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2016-02-01から1ヶ月間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉑)

正親町天皇と信長の関係は、義昭追放後変化を見せはじめ、信長は誠仁親王 との交流を深めていきます。 もともと正親町天皇の即位礼は、資金不足の為開催困難となり、父後奈良天皇 の崩御三年後、毛利元就の献金によりとりおこなわれました。 又天皇は、本願…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑳)

永禄十三年四月十九日、織田信長は参内し、朝倉討伐の為、「出陣御暇 乞」を奏上します。 正親町天皇からは「薫物」10貝を賜り、その足で御所修理の様子を見舞 い、誠仁親王から結花枝を下賜されました。 信長は翌二十日に出陣しますが、同時期に改元が行…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑲)

宇津頼重は、光秀らからの山国荘等の押領停止命令を無視します。 更に信長と義昭の対立が始まると、頼重は義昭に接近し、幕府の御供衆に 取り立てられます。御供衆とは、義輝の将軍就任期には、三好長慶、松永久 秀らが御伴衆としてあり、幕府の中核的組織を…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑱)

足利義昭は、兄義輝同様、室町幕府の復権を目指しました。そこには従来からの 天皇、朝廷に対する幕府の軽視政策があり、しばしば新たに義昭周辺に形成され た奉公衆は、公家領等の所有をめぐり、天皇とその側近らと争います。 義昭にはその中核的な軍事力に…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑰)

足利氏一門による全国統治が終焉を迎え、その守護制度が下克上の流れの 中で崩壊する中、各地で勃興した戦国大名はそれに替わる、領土支配の正当 性を、朝廷の認可のあるなしに関わらず、律令制官位を名のる事で誇示しまし た。 室町幕府の各種束縛から解き…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑯)

足利義満は中国思想をその国政に取り込むことで、天皇の権威を失墜させ 、又足利一門の勢力をそぐことで、嫡流家の独裁体制構築を図りました。 しかし彼の突然の死で、その試みは未完のまま終わります。 義満の死後その策動は彼の子らにより是正されましたが…