惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2015-09-01から1ヶ月間の記事一覧

続濃州余談⑦

正親町天皇は短気な性格なのか、度々勅勘をもって公卿達を追放して います。永禄十一年には、久我通俊を女性関係のもつれから禁裏より 追い払い、通俊の死まで許すことがありませんでした。(続濃州余談⑥) 前年の永禄十年には、権中納言正親町三条実福が天…

続濃州余談⑥

永禄十一年(1568年)、権大納言久我通俊は勅勘をうけ、その職を解かれ ます。正親町天皇御寵愛の目々典待との密通を疑わたのがその理由でし た。 天皇の怒りは激しいもので、永禄十三年に通俊の父晴通は、信長の仲介で 万里小路惟房らを通じ天皇に赦免を求…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑤)

永禄十年八月、織田信長は斎藤氏を追放し美濃国を制圧します。 翌九月には、多芸庄椿井郷宛に禁制を発給しています。 当郷之儀、依為大神宮領、伊勢寺内相構之旨、得其意候 とあり、伊勢神宮領である椿井郷での陣取を禁止し、神宮領を安 堵しています。天正…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会④)

元亀二年正月五日、山科言継邸を 中山前亞相、中院、堀川近江守、笠井源太夫、紹巴、昌叱、心前、加田新左衛 門尉、速水彦太郎、立入左京進、観世三郎らが年賀の挨拶に訪問します。 公家、武家、連歌師、役人から能役者までいて、言継の交際範囲の広さを窺い…