2019-01-01から1年間の記事一覧
細川藤孝は武士の出自や経歴に一切の関心を持たなかった、とその 子忠興は述べています。 秀吉に迎合し、狂歌を進呈する彼の姿からもそれをみてとれます。 (光秀と秀吉④) 当時彼は超一流の文化人であり、朝廷からも深い信頼を勝ち得ていま した。 彼は光秀…
光秀以前の明智氏に関係する文書は、沼田土岐氏に残存した「土岐 文書」内で確認できる二十点以外は数点あるのみで、僅かである。 沼田土岐氏の始祖明智定政は父を明智定明、母を菅沼定広の娘と いい、父定明が土岐嫡流家の内紛に巻き込まれ殺害されると、母…
光秀は明智の姓を惟任と改名した後、この姓を新たに光秀の配下にな った丹後の土豪や、都洛北を所領とする佐竹氏らに名乗らせています。 佐竹秀慶は明智秀慶と改名し、三宅秀満は明智秀満となった。要する に光秀には彼を支えるイエはなく、自前の家臣団を創…
いずれかの明智郷が、明智氏のいわゆる名字の地であり、先祖重代相伝 の本領であるなら、必ずそこには支配関係が成立しており、なんらかの文書 例えば、所領安堵状などが後世に伝わる可能性は大きい。 中世、武士の本領への執着心、すなわち相伝の所領を失う…
遠山とは恵那山のことで、遠山荘は現在の恵那市、中津川市全域にあた り、恵奈郡に含まれ、摂関家を中心とした初期荘園の一つでした。 遠山荘安岐郷は山深い地であり、この地は切り開かれて荘園領主に分 割され、そういった土地を明地といいました。(光秀の…
明智氏の本貫地はどこだったのでしょうか。大雑把に書いていきます。 可児明知荘説と恵那遠山荘説の二つあり、現在は可児説が有力です。 可児明知荘は藤原摂関家につらなる小野宮家を領家としていたのが、 史料上の初見で、元永元年十二月の右中弁源朝臣雅兼…
明智光秀は確かに実在した。彼自身が書きしたためたと思われる 書状も多く残存しています。 公的な文書も多く残り、彼自身が記した花押も確認できます。しかし 現在の私たちは、彼の正確な生年月日や享年を、知ることができま せん。 光秀の父母に関しても諸…
光秀の時衆との深いかかわり合いには、彼の生い立ちが寺院そのもの中で 形成されたと考えられることにあるかもしれません。 中世日本は、武家社会と規定されますが、真の支配者は、何重にも積み重ね られた宗教集団の層であり、公家(こうけ)、武家はその存…
望月華山氏編「時衆年表」内の、応永二十年(1413年)五月の項に 高野山の僧徒聖方の念仏を制禁すとあります。 高野山は真言宗金剛峯寺の山号であり、空海以来、庶民の信仰を 集めた密教寺院で、いわゆる東密の中心的な修行道場でした。 聖とは、時衆系(浄…
室町幕府奉行人が発給した奉書内で、その内容が明智氏に 関するものとして確認できるのは、以下の一通です。 土岐明智兵部少輔頼定与同名兵庫頭人道玄宜相論事、 今和睦知行分者、可折中旨、被成御下知訖、宜被存知 之由、所被仰下也、仍執達如件 明応四年三…
プログ閉鎖のお知らせ。 8月31日をもつて、Yahoo!プログサービス終了に ともない、当プログも終了いたします。 学術調査・研究の場とも言えず、又文学的にも拙 いものにもかかわらず、長期にわたり閲覧ありがと うございます。 惟任光秀に関する研究発表は、…
美濃國立政寺は、智通上人により開山され、永禄年間、美濃にお ける時衆寺院の中心として、末寺を多く抱える大寺院でした。 永禄十一年(1568年)、還俗した足利義昭は立政寺に対し、禁制を 発し、寺門前に掲げます。 一、軍勢甲乙人等亂入狼籍事、 一、陣取…