惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2015-06-01から1ヶ月間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉞)

「細川忠興軍功記」によれば、本能寺で信長を打ち果たした光秀は 光秀公具足乍召御参内被成扨洛中之地子被成御免高札御立被 成候事 とあるように、甲冑を着けたまま禁裏に参上します。戦闘を終えた ばかりといえ、軍装のまま参内するのはあるまじき行為であ…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉝)

「津田宗及茶湯日記」には、天正十年正月朔日、安土城における 年賀の様子がこう記されています。 上様御禮申上候、惣見寺通ニ罷上候、鳥目十疋ツ、持参仕、直 ニ御手ヘトラセレ候テ忝次第也、御幸之間オガミ申候 信長は参賀に来た大名らを台所口にまわらせ…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉜)

「沙石集」の中に、美濃国桜堂において鎌田二朗左衛門義行が詠んだ上 句 吹きすさぶ風にみだるる糸桜 が記されています。 この句は、桜の枝に結ばれていた下句 ときにきたれどむすびめもなし と対になるもので、しだれ桜(糸桜)と糸のむすびめをかけ、土岐…

続濃州余談⑤

里村紹巴は、奈良一乗院の門跡に仕える松井昌祐を父として誕生します。 しかし紹巴の幼名、通称は不明であり、父の死後、興福寺明王院の喝食 となります。大東正雲から連歌の手ほどきを受け、十九歳頃剃髪し紹巴と 名乗り、連歌の師匠周桂と共に上洛したころ…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉛)

光秀は伊勢貞興を妙覚寺に向かわせ、織田信忠を討たせます。その軍勢 は二千程であったようです。 当然作戦開始時刻は、本能寺襲撃と同時刻にセットされていたはずですが 、少しばかり遅れて開始されたようです。 信忠は信長のもとに駆けつけ、共に戦う意志…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉚)

「言経卿記」によれば、本能寺襲撃の様子はこう記されています。 夘刻前右府本能寺明智日向守依謀叛押寄了、即時前右府打死 信長が光秀謀反によりすぐさま死去したとあります。 「兼見卿記」(別本)によっても、信長の最後は 早天自丹州惟任日向守、信長之…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉙)

本能寺へ向かった斉藤利三配下の部隊は、丹波国黒井城周辺の土豪 らから成り立つていたことが「本城惣右衛門覚書」からみてとれます。 (明智資料⑱) この斉藤隊が信長襲撃の実行部隊であったことは疑いようがなく、明 智秀満配下の部隊が信長の退路を遮断し…