惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2014-03-01から1ヶ月間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑬)

天正十年三月五日朝暗い内に、信長は近衛前久、光秀らを伴い甲斐武田 氏討伐へと出陣します。 吉田兼見は子息兼冶とともに、近衛前久の出陣を見送ったという。この前日 に、筒井順慶らの大和衆が陣立てしたのだが、彼らはこの長征を迷惑至極 と感じていたよ…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑫)

聖門様ヨリ両種拝領、誠過當存候。則参上仕雖申上候。 丹州ヘ指急候条、無其儀候。御取成所迎候。毎々忝存候。 恐々謹言。 十月四日 光秀(花押) 臨江斎 床下 この書状は、光秀が里村紹巴にあてたもので、光秀が聖護院道澄より、なにか 頂き物をし、そのお…

濃州余談⑤

福知山市にある御霊神社本殿です。 宇賀御霊大神を祀る。江戸時代の領主朽木氏が光秀との 合祀を許した。朽木氏は光秀が治めた近江高島郡を本貫 地とする。善政を行った光秀を評価していたのだろう。

明智資料⑥

「右、軍役雖定置、猶至相嗜者寸志茂不黙止、併不叶其分際者相構而可加思慮、然而顕愚案 條々雖願外見、既被召出瓦礫沈淪之輩,剰莫太御人数、被預下上者、未糺之法度、且武勇 無功之族、且国家之費、頗似掠奪公務、云袷云拾存期嘲、対面々重苦労吃、 所詮、…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑪)

「妙心寺史」には以下の記述があります。 かくて六月二日の黄昏頃、光秀が軍勢一同は勝鬨を上げて我が妙心寺に引き取った。 そこで明智光秀惟任は多年の宿怨一朝に晴れ、今は心置くこともなければ、いざ自殺 せばやと、仏殿に参じ( 中略 )、比時妙心の小僧…

濃州余談④

京都妙心寺境内に、かって浴室(宣明)として使用されていた 建物があります。この浴室は「明智風呂」と呼ばれています。 天正十五年、塔頭である太嶺院の僧、密宗が敗死した光秀を 慰霊する為に建立したといわれています。それ以来この浴室は 禅僧の入浴に…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑩)

天正三年七月、誠仁親王主催による蹴鞠の儀が、禁中にて開催され、信長も参 席し終了後、信長が天皇より盃を拝領した、と「信長公記」にあります。 その後禁中より信長に官位を進められたとありますが、信長はこの申し出を断り、 考えがあって、替わりに家臣…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑨)

信長と光秀がいつ、どこで、どのような理由で出会ったのかは明らかでない。 「信長公記」によれば、永禄十二年、十五代将軍になった足利義昭がいる本 國寺が、信長が都を留守にしている間に、三好三人衆の逆襲を受け、光秀ら がその攻撃を防いだとある。戦い…

明智資料⑤

「永禄六年諸役人附」のなかに、明智という名の人物の記載があります。これは 十三代将軍足利義輝配下の家臣団の氏名を羅列記載したものですが、明智と いう名が、足軽衆の最後尾に記されています。(左頁最下段左から11人目) この人物が光秀本人と断定は…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑧)

光秀の最初の妻は、西美濃を拠点とした山岸氏嫡流山岸光信の娘であるといいます。 これは「美濃国諸家系譜」という系図書のなかに、その記載があり、後に光秀の家臣 団のなかに、山岸一族が組み込まれているのをみると、その関係性は深く、事実では ないかと…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑦)

光秀は越前の朝倉氏に仕官し、五百貫の知行を得ていたと、細川家記に記載されて います。しかし朝倉側の資料からは、それを示すものはなにもありません。 朝倉氏に仕官していたかどうかは別にして、光秀は越前の国にいたのでしょう。 将軍義輝になんらかの係…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑥)

文和八年(1361年)七月付けの醍醐寺文書に、尾張国海東郡保分例名における正 税を地頭土岐明智伯耆守が押領したとの記載があり、現在の愛知県蟹江町、清洲 町近辺の土地に、明智氏が地頭として勢力を張っていたことがわかります。 この明智伯耆守は長山(明…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑤)

永禄十一年、足利義昭は信長の軍事力を背景に入京し、室町幕府十五代将軍に就任 しました。それ以前岐阜城において、信長と義昭のあいだで、どのような話し合いがなさ れたのかは窺い知ることはできません。 義昭は、兄義輝同様、将軍権力の再生と室町幕府の…

明智資料④

現在、信長の自筆書状として確認できる唯一のもの です。天正五年長岡与一郎(細川忠興)にその軍功 を賞して与えたものです。これは信長直筆の書状で ある、と述べた堀秀政の添状が付属しています。 信長自ら筆を手に取るのは稀有なことだったのでしょう。

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長④)

天正九年八月二十一日付けの多聞院日記に、以下の記載があります。 今暁惟任被帰了。無殊儀珍重珍重。 去七日八日比興欠、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了。 信長一段ノキヨシ也。向州無比類力落也。 この頃、光秀は大和国にいて、郡山城の修築の監視や寺社等との折…