惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2015-04-01から1ヶ月間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉔)

天正十年五月十七日、光秀は細川藤孝、筒井順慶らとともに安土を離れ 坂本に帰城します。 「信長公記」によれば 五月廿五日、惟任日向守、中国ヘ出陣ノ為、坂本ヲ打チ立チ、丹波 亀山ノ居城ニ至リ参着 とあり、光秀は廿五日に、丹波亀山城に移動しています。…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉓)

「信長公記」によれば、信長は秀吉からの高松城攻めの一報をうけ 此等ノ趣聞コシメシ及バレ、今度間近ク寄リ合ヒ侯事、天ノ与フル トコロニ侯間----御動座ナサレ、中国ノ歴々討チ果タシ、九州 マデ一篇ニ仰セツケラルベキノ旨、上意ニテ、堀久太郎御使-…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉒)

天正十年四月二十四日、織田信長は細川藤孝、一色五郎に対して 、秋に予定していた毛利領への侵攻戦を、羽柴秀吉からの一報が入 りしだい、自ら出陣し敢行する旨伝え、軍備を整え待期するよう命じ ます。 又その詳細については惟任光秀より伝達させるとあり…

続濃州余談④

「信長公記」内の記述には、天正十年三月三日 中将信忠卿、上ノ諏訪表ニ至ツテ、御馬ヲ出ダサレ、所々 放火。抑、当社諏訪大明神-------神殿ヲ初メ奉 リ、諸伽藍悉ク一時ノ煙とナサレ、御威光、是非ナキーー とあり、織田信忠が諏訪大社上社本宮を焼…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉑)

天正十年三月二十八日、諏訪に在陣中の信長のもとに、甲斐を制圧した 信忠が挨拶の為到着します。 信長はこれにあわせて、傘下の軍を解散させ、国元への帰陣を命じます。 「信長公記」によれば 駿河・遠江ヘ御廻り候テーーーーー諸卒是レヨリ帰シ申シ、頭バ…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ⑳)

天正十年三月八日、吉田兼見は朝廷より、出陣した信長の為、戦勝祈祷 を命ぜられ、即日修行にはいります。 廿三日結願し、兼見は鈴鹿喜介を使者として、森乱宛に書状を出します。 就御進發、御祈祷義爲、禁裏被仰出、十七日致修行、勝軍治要之御祓 進献上候…