惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2019-08-01から1ヶ月間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か⑦)

細川藤孝は武士の出自や経歴に一切の関心を持たなかった、とその 子忠興は述べています。 秀吉に迎合し、狂歌を進呈する彼の姿からもそれをみてとれます。 (光秀と秀吉④) 当時彼は超一流の文化人であり、朝廷からも深い信頼を勝ち得ていま した。 彼は光秀…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か⑥)

光秀以前の明智氏に関係する文書は、沼田土岐氏に残存した「土岐 文書」内で確認できる二十点以外は数点あるのみで、僅かである。 沼田土岐氏の始祖明智定政は父を明智定明、母を菅沼定広の娘と いい、父定明が土岐嫡流家の内紛に巻き込まれ殺害されると、母…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か⑤)

光秀は明智の姓を惟任と改名した後、この姓を新たに光秀の配下にな った丹後の土豪や、都洛北を所領とする佐竹氏らに名乗らせています。 佐竹秀慶は明智秀慶と改名し、三宅秀満は明智秀満となった。要する に光秀には彼を支えるイエはなく、自前の家臣団を創…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か④)

いずれかの明智郷が、明智氏のいわゆる名字の地であり、先祖重代相伝 の本領であるなら、必ずそこには支配関係が成立しており、なんらかの文書 例えば、所領安堵状などが後世に伝わる可能性は大きい。 中世、武士の本領への執着心、すなわち相伝の所領を失う…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か③)

遠山とは恵那山のことで、遠山荘は現在の恵那市、中津川市全域にあた り、恵奈郡に含まれ、摂関家を中心とした初期荘園の一つでした。 遠山荘安岐郷は山深い地であり、この地は切り開かれて荘園領主に分 割され、そういった土地を明地といいました。(光秀の…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か②)

明智氏の本貫地はどこだったのでしょうか。大雑把に書いていきます。 可児明知荘説と恵那遠山荘説の二つあり、現在は可児説が有力です。 可児明知荘は藤原摂関家につらなる小野宮家を領家としていたのが、 史料上の初見で、元永元年十二月の右中弁源朝臣雅兼…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か①)

明智光秀は確かに実在した。彼自身が書きしたためたと思われる 書状も多く残存しています。 公的な文書も多く残り、彼自身が記した花押も確認できます。しかし 現在の私たちは、彼の正確な生年月日や享年を、知ることができま せん。 光秀の父母に関しても諸…