2015-01-01から1年間の記事一覧
天正九年四月七日、織田信長は森乱(成利)宛に、朱印状を発給し 所領を給付します。江州知行分とあり、すでに成利は知行地を美濃 國にも所有していたのでしょう。朱印状には 一 薬師村 百弐拾石 一 須恵村 五拾石 等現在の近江八幡市近郊の土地が五百石ほど…
天正三年三月十四日、織田信長は徳政令を発し、門跡、公家衆の借銭、借 米を帳消しにします。 経済的苦境にあった公家衆を救済する為のものであり、債権者に対する軍 事的威圧をともなうものでした。 又信長は、近衛前久ら摂関家当主や寺社門跡に新地を付与…
天正三年、織田信長は近衛前久に、山城国内で三百石を与えます。 山城国五箇庄八拾并西院内百石。西九条内四拾石余・唐橋拾石・ 岩倉谷諸散在七拾石余等事、為新地進覧候、全可有御直務之状 如件、 天正三年十一月六日 近衛殿 信長(朱印) 都から遠方の実体…
尚々、御料所事、得其意候、上洛之刻、カタカタ可申述候也、芳札排坡、 承悦之至候、先度鱈進入候付而、御懇示給候、御心サシ計候ツル、将 亦、木練一籠、即賞翫無他候、フト可為上洛候之間、以面展可申入候 カシク 信長(黒印) 近衛殿 信長 これは近衛家に…
足利義輝の壮絶な戦死により、室町幕府はその歴史的使命の終焉と組織 の最終的崩壊に至った、と考えて間違いないでしょう。 幕府再興を願う義輝は近衛家と密接な関係を作り上げていましたが、彼等 摂関家はあっさりと義輝を見捨て、三好一族ら時の権力者にす…
永禄11年(1568年)7月、足利義昭は越前国一乗谷を出て、美濃国岐阜に到着 します。信長の動きは迅速で、「御湯殿上日記」の9月26日条に 一てういんとの(足利義昭)、きよみつまで御しやうらく、みつふちきやうふのたゆ ふ(三淵兵部大輔)、みやうい…
聖護院道澄は近衛前久の実弟であり、里村紹巴、三条西実枝とともにこ の時代の歌会をリードする存在でした。道澄は兄前久とともに、越後へ下 向し、長尾景虎(上杉謙信)の関東への出兵に同行するなど、その活動 は幅広く、僧侶の枠から逸脱する部分を持つ人…
すでに述べましたが、近衛前久の父稙家の妹は、室町幕府十二代将軍足 利義晴の正室であり、十三代義輝、十五代義昭の実母であり、慶寿院と呼 ばれました。 又前久の妹二人はそれぞれ足利義輝、朝倉義景に嫁ぎ、近衛家と足利家 のこの時代における、密接な繋…
近衛家と薩摩島津氏の交流関係は深く長い。島津氏は本姓は惟宗氏であり 帰化系氏族秦氏の流れを汲み、惟宗忠康が平安末期、摂関家筆頭近衛家 の所領薩摩島津荘に荘園管理者として下り、その子忠久が島津氏を名乗っ たのが始まりといわれています。 忠久は源…
天文五年(1536年)、近衛前久は関白稙家を父として誕生します。母慶子は細川 高基の娘であり、久我通言の養女として嫁ぎました。稙家の妹慶寿院は、十二代 将軍足利義晴の正室であり、十三代義輝、十五代義昭の生母です。 近衛前久には武家の血が色濃く流れ…
正親町天皇は短気な性格なのか、度々勅勘をもって公卿達を追放して います。永禄十一年には、久我通俊を女性関係のもつれから禁裏より 追い払い、通俊の死まで許すことがありませんでした。(続濃州余談⑥) 前年の永禄十年には、権中納言正親町三条実福が天…
永禄十一年(1568年)、権大納言久我通俊は勅勘をうけ、その職を解かれ ます。正親町天皇御寵愛の目々典待との密通を疑わたのがその理由でし た。 天皇の怒りは激しいもので、永禄十三年に通俊の父晴通は、信長の仲介で 万里小路惟房らを通じ天皇に赦免を求…
永禄十年八月、織田信長は斎藤氏を追放し美濃国を制圧します。 翌九月には、多芸庄椿井郷宛に禁制を発給しています。 当郷之儀、依為大神宮領、伊勢寺内相構之旨、得其意候 とあり、伊勢神宮領である椿井郷での陣取を禁止し、神宮領を安 堵しています。天正…
元亀二年正月五日、山科言継邸を 中山前亞相、中院、堀川近江守、笠井源太夫、紹巴、昌叱、心前、加田新左衛 門尉、速水彦太郎、立入左京進、観世三郎らが年賀の挨拶に訪問します。 公家、武家、連歌師、役人から能役者までいて、言継の交際範囲の広さを窺い…
山科言継の山科家は、朝廷内での管弦と服飾に関する職務を担当世襲する 家柄であり、言継は経済的困窮の極みにあった天皇のもとで、内蔵頭と御厨 子所別当として、朝廷内の財政管理にたずさわっていました。 山科郷を所領としたのがその名字の由来であり、大…
長期わたり南北に分裂していた天皇家が合一した時には、天皇家を頂点とする 公家社会はその政治的権限をすべて室町幕府に奪われ、その権威も形骸化し ていました。 朝廷は幕府の支配体制を儀礼等で補完するだけの存在として位置づけられ、そ の経済的基盤で…
三河国(愛知県東部)は足利氏の軍事・経済力の源泉であり、多くの足利氏支族 が生まれています。 現在でも、吉良、今川、一色、細川、仁木等の地名が残り、足利一族である彼ら の本貫地がそこにあったことを知ることができます。 足利氏は清和源氏の流れを…
六月十五日、その日記の中で、吉田兼見は光秀の最後をこう記しています。 向州於醍醐之邊討取一揆、其頸於村井清三、三七郎 殿令持参云ゝ 光秀は醍醐近辺で一揆に討取られ、その首は村井清三により織田信孝へ 届けられたとあり、その最後は十三、十四両日の…
勧修寺晴豊が記した「晴豊日記」には、本能寺の変後、都の多くの人々 が禁裏周辺に避難し小屋を作り生活していたとあります。 ノケ者数カキリナシ、コヤ共カケ、事他也 光秀は、都の治安を守ると表明し、税の免除を約しましたが、禁裏への 避難民は増え続け…
「多聞院日記」には 十四日、日中マテ大雨下、打續降雨、希代也 とあり、十四日お昼まで大雨で、このように雨が続くことは珍しいと記されて います。 「兼見卿記」の十三日の記述には 十三日 己亥 雨降 申刻至山崎表鐵放之音数刻不止 とあり、降雨の中、午後…
天正十年六月九日(新暦七月八日)、吉田兼見の屋敷で光秀から、天皇と 誠仁親王に進上された銀子五百枚を持って、日没後兼見はまず勧修寺晴 豊宅を訪れ、一緒に御所へ向かい、献金について長橋御局に報告します。 その後誠仁親王と対面し、委細を申し入れ女…
都へ帰還した吉田兼見のもとに光秀から書状が届きます。前日八日に明智軍 先鋒は、山科、大津に陣を構えており、摂津侵攻に向けた進軍でした。 「兼見卿記」(別本)には 以自筆申夾了 とあり光秀の自筆書状が届いたとあります。関ヶ原戦前の、徳 川家康の様…
天正十年六月六日、吉田兼見は、勧修寺晴豊より書状を受け取り、参内し ます。誠仁親王と対面し 日向守為御使罷下、京都之義(儀)無別義之様堅可申付之旨仰也 と「兼見卿記(別本)」にあるように、安土にいる光秀のもとへ勅使として 赴くよう命ぜられます…
「細川忠興軍功記」によれば、本能寺で信長を打ち果たした光秀は 光秀公具足乍召御参内被成扨洛中之地子被成御免高札御立被 成候事 とあるように、甲冑を着けたまま禁裏に参上します。戦闘を終えた ばかりといえ、軍装のまま参内するのはあるまじき行為であ…
「津田宗及茶湯日記」には、天正十年正月朔日、安土城における 年賀の様子がこう記されています。 上様御禮申上候、惣見寺通ニ罷上候、鳥目十疋ツ、持参仕、直 ニ御手ヘトラセレ候テ忝次第也、御幸之間オガミ申候 信長は参賀に来た大名らを台所口にまわらせ…
「沙石集」の中に、美濃国桜堂において鎌田二朗左衛門義行が詠んだ上 句 吹きすさぶ風にみだるる糸桜 が記されています。 この句は、桜の枝に結ばれていた下句 ときにきたれどむすびめもなし と対になるもので、しだれ桜(糸桜)と糸のむすびめをかけ、土岐…
里村紹巴は、奈良一乗院の門跡に仕える松井昌祐を父として誕生します。 しかし紹巴の幼名、通称は不明であり、父の死後、興福寺明王院の喝食 となります。大東正雲から連歌の手ほどきを受け、十九歳頃剃髪し紹巴と 名乗り、連歌の師匠周桂と共に上洛したころ…
光秀は伊勢貞興を妙覚寺に向かわせ、織田信忠を討たせます。その軍勢 は二千程であったようです。 当然作戦開始時刻は、本能寺襲撃と同時刻にセットされていたはずですが 、少しばかり遅れて開始されたようです。 信忠は信長のもとに駆けつけ、共に戦う意志…
「言経卿記」によれば、本能寺襲撃の様子はこう記されています。 夘刻前右府本能寺明智日向守依謀叛押寄了、即時前右府打死 信長が光秀謀反によりすぐさま死去したとあります。 「兼見卿記」(別本)によっても、信長の最後は 早天自丹州惟任日向守、信長之…
本能寺へ向かった斉藤利三配下の部隊は、丹波国黒井城周辺の土豪 らから成り立つていたことが「本城惣右衛門覚書」からみてとれます。 (明智資料⑱) この斉藤隊が信長襲撃の実行部隊であったことは疑いようがなく、明 智秀満配下の部隊が信長の退路を遮断し…