惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2017-03-01から1ヶ月間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑬)

伊勢貞興の祖父である政所執事貞孝に関しては、政所代蜷川親俊 が記した残存する日記の中で、その行動を知ることができます。 親俊は貞孝を、貴殿と敬称をもって呼んでおり、主従関係にあること がわかります。 蜷川氏は、山城国山科を領した宮道氏から派生…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑫)

元亀三年七月四日の日付で出された「伊勢貞興返答書」があります。 宛先不明ですが、足利将軍の軍装等を記したもので、貞興の花押 があります。 内容は高度であり、当時十歳である貞興が、記憶し書き記せるもの ではなく、伊勢氏家臣の奉行衆の誰かが代筆し…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑪)

慶長二十年(1615年)五月、豊臣秀頼、淀殿は大阪城、山里曲輪にて、自害し ます。この時、ともに自害した者のなかに阿古局がいました。 阿古局は和期局とも言われ、父は伊勢貞為ないしは貞良といわれます.。史料 的に整合性が確定できず、年齢、事跡らから…

明智資料㊻

伊勢貞為は貞興の兄であり、政所執事であった祖父貞孝と父兵庫頭貞良 が、足利義輝と対立し、挙兵戦死すると、伊勢氏家臣団や貞興とともに若狭国 へ逃れました。(奉行衆・奉公衆⑥) 三好三人衆により義輝が殺害されると、貞為は足利義栄に仕えますが、義輝 …

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑩)

元亀四年七月、禁裏の調停により、信長との和議がまとまり、二条城から 宇治槇島城へ移った足利義昭は、再度挙兵します。 光秀、細川藤孝らが槇島城を囲みますが、城内には政所執事伊勢貞興 の姿がありました。貞興はこの時点まで義昭に近侍していましたが、…