惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2014-05-01から1ヶ月間の記事一覧

濃州余談⑰

明智光秀は、天正十年六月二日(旧暦)未明、本能寺において 主君織田信長を討ち果たしました。現在の暦では、七月一日に なります。歴史を作った人物でありながら、歴史的に抹殺された この人物の謎にせまり、この人物にそれなりの評価が与えられ るよう、…

明智資料㉑

筒井順慶は、得度前の名前は藤勝と言います。順慶の足跡は「多聞 院日記」の中に、詳細に述べられています。 順慶の正妻は、明智光秀正妻煕子の妹であり、又光秀の次男が子 のない順慶の養子となっていると言われるが、事実関係はどちらも 定かでありません…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代㉔)

細川藤孝、忠興父子は、信長が光秀に討たれたという、愛宕下坊からの 報に接した後、剃髪して信長への哀悼の意を表しました。 しかし、光秀との間に、積極的に戦端を開く意志は感ぜられず、中立的な 立場をとりつつ、秀吉に対しても畿内の状況を知らせるとい…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代㉓)

足利将軍とその直臣の関係性は、「御恩」と「奉公」の上に成り立ち 、直臣は将軍の直轄地である御料所を預かり、そこから収入を得て いました。 そこに、幕府直臣を奉公衆という由来があります。細川藤孝はその 奉公衆の指導者である、御供衆でありました。 …

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代㉒)

光秀の歌風は、稚拙なところもありますが、実生活とは違い大胆に、自分の 気持ちを詠み込んでいます。 細心で用心深いおのれの心から、解き離れたいという欲求の表れなのかも しれません。 ときは今 天が下しる 五月哉 愛宕神社西坊における、惟任日向守光秀…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代㉑)

細川藤孝にとって、光秀はいかなる存在であったのでしょうか。光秀に とり藤孝は、文化的に憧憬の対象であり、文芸の師でもありました。 藤孝にとっても、文化意識が高く、教養のある光秀は好ましい人間であ ったことでしょう。 しかしこの二人の間には、微…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑳)

戦国時代愛宕神社は、軍神を祭る寺社として、武士の信仰の対象であった。 愛宕山白雲寺はその中心であり、勝軍地蔵を本尊とする、神仏習合の寺社 でありました。白雲寺内には、本宮の他に、奥院と六つの宿坊がありました。 光秀が連歌会を開いた、威徳院西坊…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑲)

千葉介常胤を祖とする東氏は、歌道において群を抜いた名門武家でした。 各時代の当主が詠んだ歌は、「続後撰集」にはじまり、「続千載集」そし て「新続古今集」に選出されています。十一代当主常縁は、切紙を用い、 「古今和歌集」の正統な解釈を伝授する「…

明智資料⑳

戦国時代の武将にとり、戦い前の連歌興行は、敵に対して、呪いをかける 呪術の意味合いがあった。出陣をする前に、連歌会を催し、出席した全武 将の詠んだ和歌すべてを、神前に奉納して戦勝を祈願しました。 又歌を詠みつなぐなかで、相互の連帯感と戦意高揚…

明智資料⑲

織田信忠は、妙覚寺に宿泊していたが、本能寺の異変に気づき、駆けつ けようとした矢先、村井貞勝が妙覚寺に飛びこんできて、本能寺がすで に明智軍の手に落ちたことを知らせます。 極めて短期間に戦闘が終了し、信長が自害に追い込まれたことがわかり ます…

濃州余談⑯

当時の本能寺は、今の位置とは異なり、現在の六角通、油小路通 、西洞院通に囲まれた範囲内にあった。 丹波口にも近く、明智軍はここから、それぞれの持ち場へと分散し 行軍していったのだろう。 現在の本能寺本堂は、京都帝大教授で古社寺修理の権威である …

明智資料⑱

本城惣右衛門覚書内に記された、本能寺の変関係の内容は、要約 すると以下のようです。 ①本能寺に一番乗りしたのは、我々であり、信長を狙うとは夢想だに しなかった。 ②秀吉と毛利との戦闘に、光秀は援軍として赴くところでした。 ③山崎の方向へ向かうと思…

濃州余談⑮

本城惣右衛門有介は丹波に生まれる。悪しき育ちであり、山賊を生業とし、 盗人稼業にいそしみ、殺害した女子供の数は限りなしと自ら述懐している。 若い頃は相当な悪であったようです。 しかし、この覚書を親族あてに残した時は、かなりの高齢であり、本人も…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑱)

今の京都と違い、天正十年の京都は、田畑が多く、信長が宿泊地とし た本能寺周辺は、田畑であった。この法華宗寺院は前面に門前町を 持ち、正門前に、村井貞勝の屋敷がありました。 下京に向かう道が、数本走り、寺院ではあるが、周囲に堀を廻らし、 防御機…

明智資料⑰

母衣とは、甲冑の背中につける、縫い合わせた長い布で、騎上の武士 を流れ矢から守る、実用的な装備でありました。 母衣を身に着けて戦死した武士の首は、母衣で包むのが、敵味方とも に決まりでした。 騎射が廃れた、応仁の乱以後は、装飾的な視覚効果を狙…

明智資料⑯

覚書内における、明智氏関係の主要人物の記述は以下の様である。 さだめて、弥平次殿ほろの衆二人、きたのかたよりはい入、 くびハ うちすてと申候まゝ、だうの下へなげ入、 をもてへはいり候へバ、ひ ろまニも一人も人なく候。 かやばかりつり候て、人なく…

明智資料⑮

これは、本能寺襲撃に参加した、明智方の武士、本城惣右衛門が 晩年親族にあて、残した記録です。 この中に 人じゆの中より、馬のり2人いで申侯。たれぞと存侯へバ、さいたう くら介殿しそく、こしやう共ニ二人、ほんのうぢのかたへのり被申侯 あいだ。我等…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑰)

「妙心寺史」には、 かくて六月ニ日の黄昏頃、光秀が軍勢一同は、勝鬨を上げて我が妙心寺 に引き取った とあります。引き取るとは、一度出て行ったものを受け取るの意味があり、又 預かり世話をするとの意味もあります。 妙心寺に光秀が本陣を、置いていた事…

濃州余談⑭

昭和37年9月、重要文化財に指定されて いた、浴鐘楼は放火により焼失しました。 これを契機に京都市内の、文化財の防災 設備が整備されたそうです。 現在のものと比較して、大きな建物だった ようです。

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑯)

光秀と臨済宗妙心寺派との結びつきは強固であった。明智風呂について はすでに述べていますが、この建物は光秀の没後、天正十五年に、塔頭 太嶺院の僧、密宗宗顕が建立したといわれます。(濃州余談④) その後焼失し明暦二年(1656年)に再建されています。…

濃州余談⑬

光秀が、どのような宗教観を持っていたかは、よくわからない。しかしフ ロイスが光秀の事を、「仏教と神道の大いなる友である」と述べているよ うに、その時代の一般的な宗教心を持った人であったと思われます。 光秀の居城であった坂本城の近くにある西教寺…

明智資料⑭

信長は、桶狭間出陣時、熱田神宮で戦勝を祈願して、願文を奏しま した。 戦いは、織田方の大勝利となり、その御礼としてこの塀を奉納しまし た。 宗教心のない信長らしからぬ行為ですが、この勝利がよほど嬉しか ったとみえます。 熱田大宮司の家柄である千…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑮)

キリスト教はこの時代、西国を中心に、宣教師の懸命な布教により、その勢力を 拡大していました。 信長がキリスト教を庇護したのは、その教えに帰依し、強い信仰心を持ったから ではなく、既得権益を持つ、各宗教勢力との対抗軸に、キリスト教を据えたのに …

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑭)

荒木村重、松永久秀ともに、主君は信長であり、その信長に対す敵対行為 は、裏切りであり断罪されるものである、という考え方は、戦国時代の彼ら には存在しませんでした。 江戸時代に確立される、儒教思想的武士道は、平和の時代の思想であり、 彼らが生き…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑬)

永禄十一年上洛し、都の新たなる支配者になった信長と義昭に対し、松 永久秀がよしみを通じてきた時、兄である13代将軍義輝を久秀に殺され た義昭は、強く嫌悪感を示し、その申し出を拒絶します。 久秀が信長に献上した名物「九十九髪茄子」の効果が、あっ…

明智資料⑬

多聞院日記内の、永禄十年十月十日付の記述はこのようなものです。 今夜子之初点ヨリ、大佛ノ陣へ多聞山ヨリ打入合戦及数度、 兵火ノ余煙ニ穀屋ヨリ法花堂ヘ火付、ソレヨリ大佛ノ回廊ヘ 次第ニ火付テ、丑刻ニ大佛殿怱焼了。 大佛ノ陣は、三好三人衆方を指し…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑫)

松永久秀は、現代において、戦国時代の武将としての評判はかんばしく ない。もっとはっきり言えば、悪評高いイメージがつきまといます。 戦国時代の三大梟雄(残忍で猛々しい人の意味)といわれ、その悪行が 今に伝わっています。しかしこの人の一生をよく見…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑪)

松永久秀は、商人の出身であり、斉藤道三とは旧知の仲であったという 説がある。久秀と信長の接近の様子をみると、あながち否定できない。 久秀は三好長慶に仕え、文武の才覚で頭角を現し、家宰となります。 長慶の娘を娶り、三好三人衆とともに、長慶の死後…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑩)

元亀二年(1571年)和泉国で、織田軍と松永久秀軍との戦があり、勝利 した織田軍に対し、信長は松永方の首級240ばかりを、都へ送らせます。 持ち込んだ首級は、都の中心にある足利義昭の御所に届けられ、その門 前にある桜馬場に並べられました。 都…

明智資料⑫

岩佐又兵衛は荒木村重の実子として、天正六年に生まれる。 母は、だしと推測されるが、確認はできない。荒木一族は幼 子を含めて、ほとんどが処刑されたが、乳母の機転で生き残 り、本願寺に匿われ、成長後織田信雄に仕える。画才に優れ 、信雄の改易後、絵…