惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2015-01-01から1ヶ月間の記事一覧

濃州余談㊾

「兼見卿記」内には、時折謎めいた名前の人物が登場します。 天正七年八月八日の記述に 先年祈念之義濃州加児六郎左衛門尉息彦法師、爲湯治令上 洛、爲礼来、青銅百疋持来--------僧一人出座也 とあるように、美濃の加児六郎の息子彦法師が上洛して…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊿)

天正七年七月三十日、正親町天皇は、丹波宇津城を攻略した光秀 に、丹波山国荘の御料所を回復したとして、馬・鎧・香袋を賜りまし た。城を陥落させたのは、七月十九日でしたからすばやい反応で、 朝廷がこの報せを心待ちにしていたことがわかります。 翌年…

濃州余談㊽

一色氏は丹後守護の家柄であり、美濃守護土岐氏とは縁戚関係が ありました。 一色義定(義有)は武勇に優れ、細川氏の丹後侵攻に頑強に抵抗 しました。弓木城に籠った義定に苦戦する藤孝に対して、光秀は義 定と藤孝娘伊也との婚姻を助言します。 この婚姻は…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊾)

天正七年五月六日、光秀は小島助太夫、田中宮内等丹波の土豪 に八上城攻撃を命じます。 「兼見卿記」の五月十八日付けの記述には 丹州波多野在城今度惟向取詰、近々可令落着云々 とあり、八上城陥落が間もないことがわかります。 六月一日には 丹州高城落城…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊽)

天正七年正月十七日、吉田兼見は坂本に赴き、光秀に面会してい ます。 光秀の接待は丁寧であり、光秀は用事があったのですが、あいにく の雨降りで、雨が上がるまで再度兼見の為に場をもうけ、うどんと 魚でもてなします。 光秀のこまやかな気遣いをみてとれ…

明智資料㊴

荒木村重の謀反は信長に大きな困惑をもたらし、「志賀の陣」の二の 舞再現を恐れて、又しても朝廷と天皇を利用し、本願寺および毛利氏 との講和を画策します。 本願寺に勧修寺晴豊らが赴き、勅命を伝えます。顕如は条件つきです が、正親町天皇のことばを聞…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊼)

天正六年八月、光秀娘玉は細川忠興に嫁ぎます。 ともに十六歳であり、信長の意向に添った婚姻であったといいます。 婚礼は藤孝居城の山城勝竜寺城で行われた、と「細川家記」にあり 、花嫁の乗る馬の轡は明智秀満がとり、城外で松井康之が受け取 った、とあ…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊻)

「兼見卿記」の天正六年九月廿七日の記述には 右府御下向南方 とあり、信長が大船を見る為に、堺へ向かったことが記されてい ます。 「信長公記」にも同様な記述があり 九月廿七日、九鬼右馬允大船御覧タサルベキタメ、京都ヨリ 八幡マデ御下リ、翌日、廿八…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊺)

天正六年六月十八日付けの、荒木村重宛信長黒印状は六か条か ら成り 大船方々相尋候共、無之由候ーーーー とあるように、前線から要請のある大船が間に合わないので、現地 調達に努めるように、とあり、続いて毛利氏、本願寺の動向を報せ、 淡路の安宅信康に…

明智資料㊳

松平家忠は、慶長五年(1600年)に関ヶ原の戦いの前哨戦である 伏見城攻防戦で、西の丸守将として、小早川秀秋率いる西軍と戦 い戦死します。 家康から捨駒として据え置かれた最後でしたが、その別れのとき 家康は思わず落涙したといいます。 家忠は武人とし…

濃州余談㊼

「家忠日記」の中で、松平主殿助家忠は、本能寺における信長生害の 様子をこう記しています。 六月三日、雨と書いた後、都から上司の酒井左衛門尉からの、家康の 西国出陣の際の、指物や旗について指示を受けています。 そして酉刻、大野より注進があり 京都…

濃州余談㊻

天正五年八月廿四日の「兼見卿記」の記述には、荒木村重から 摂津有岡城内に山王社を造りたいので、神体の事を兼見に頼む 、と清原三位を通じて言ってきたとあります。 兼見はこれに対して、社の大小等を尋ね、書状をしたため鈴鹿兵 尉助に持たせて摂津へ赴…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊹)

松永久秀、久通父子が、勝手に戦線を離脱したほぼ同時期に、はるか 北陸の地で、信長の許しを得ず勝手に前線を離れ、帰還した武将がい ました。 「信長公記」には 八月八日、柴田修理亮、大将トシテ、北国へ御人数出ダサレ侯。 滝川左近、羽柴筑前守、惟住五…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊸)

天正五年八月十七日、松永久秀、久通父子は摂津天王寺に設けた 本願寺に対する付城から離脱し、大和信貴山城に立て籠もります。 信長はその報せに驚き、松井友閑を使者に立て、謀反の理由を尋ね 、希望があれば述べるよう説得しますが父子はそれに応じません…

明智資料㊲

信長の自筆書状として確認されているものは一点のみですが、そ の可能性がある書状は他にもみられます。(明智資料④) 天正五年の三月十五日付けと思われる長岡藤孝等宛黒印状と言 われるものは、細川藤孝、惟住(丹羽)長秀、滝川一益、光秀の 四人にあてた…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊷)

天正五年二月十日、信長は細川藤孝宛に朱印状を送り、雑賀衆 攻撃を命じます。 至泉州近辺可罷立候、左候者、我々則可進発候条、彼面行之儀 者可申付候、-----惟任・荒木比分申付候間、可相談候也 長岡兵部大輔殿 信長(朱印) とあり、光秀、荒木村重…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊶)

天正四年五月大晦の「多聞院日記」には 明智煩付、従筒井彼坊舎衆七人ヘ祈祷事被申 とあり、筒井順慶が、僧坊の七人へ光秀の病平癒の祈祷を命じた ことがわかります。 すでにこの時点での、光秀と順慶の親密さが見て取れます。 七月十四日には、吉田兼見は …

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊵)

「言継卿記」の天正四年五月八日付けの記述には 自南方右大將注進度々有之ーーーーー一萬計討捨云々 ---さいかの孫一等討取云々 とあり、信長が雑賀孫一を討取ったと記されています 更に、翌九日には さいかの孫一首昨日上云々、早旦勘解由小路室町武家 …

明智資料㊱

信長は天正四年四月五日に、摂津平野荘惣中宛に朱印状を出し ています。十六日には光秀が平野荘へ入って陣を置きます。 信長の朱印状には 従当所大阪兵糧入事、可為曲事候、堅停止簡要候、若猥之 族聞立、可令成敗之状如件 平野荘惣中 信長(朱印) とあり、…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊴)

「信長公記」によると天王寺合戦の様子は 五月五日、後詰トシテ、御馬ヲ出ダサレ、明衣ノ仕立纔カ百騎 バカリニテ、若江ニ至リテ御参陣 とあり、信長は寝間着のまま、馬廻り百騎とともに出撃します。 五月七日には、兵士が集結しないなか 一万五千バカリノ御…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊳)

天正三年十月、織田信長と本願寺は三好康長を仲介人として講和 を結んでいます。戦況不利な本願寺からの申し出でしたが、信長は 石山本願寺への総攻撃を延期します。 翌年四月には、毛利氏の庇護を受けた足利義昭と連帯して、本願 寺は挙兵し、織田軍と対峙…

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊲)

天正四年一月十五日の「兼見卿記」の記述には 丹州黒井之城、萩野惡衛門在城也、旧冬以來惟任日向 守取詰在陣也、波多野令別心、惟任在陣令敗軍云々 とあり、前年の冬以来、丹波黒井城の萩野惡衛門(赤井忠衛門)を 攻城中の光秀が、八上城の波多野秀治の裏…