日本史
細川藤孝は武士の出自や経歴に一切の関心を持たなかった、とその 子忠興は述べています。 秀吉に迎合し、狂歌を進呈する彼の姿からもそれをみてとれます。 (光秀と秀吉④) 当時彼は超一流の文化人であり、朝廷からも深い信頼を勝ち得ていま した。 彼は光秀…
光秀以前の明智氏に関係する文書は、沼田土岐氏に残存した「土岐 文書」内で確認できる二十点以外は数点あるのみで、僅かである。 沼田土岐氏の始祖明智定政は父を明智定明、母を菅沼定広の娘と いい、父定明が土岐嫡流家の内紛に巻き込まれ殺害されると、母…
光秀は明智の姓を惟任と改名した後、この姓を新たに光秀の配下にな った丹後の土豪や、都洛北を所領とする佐竹氏らに名乗らせています。 佐竹秀慶は明智秀慶と改名し、三宅秀満は明智秀満となった。要する に光秀には彼を支えるイエはなく、自前の家臣団を創…
いずれかの明智郷が、明智氏のいわゆる名字の地であり、先祖重代相伝 の本領であるなら、必ずそこには支配関係が成立しており、なんらかの文書 例えば、所領安堵状などが後世に伝わる可能性は大きい。 中世、武士の本領への執着心、すなわち相伝の所領を失う…
遠山とは恵那山のことで、遠山荘は現在の恵那市、中津川市全域にあた り、恵奈郡に含まれ、摂関家を中心とした初期荘園の一つでした。 遠山荘安岐郷は山深い地であり、この地は切り開かれて荘園領主に分 割され、そういった土地を明地といいました。(光秀の…
明智氏の本貫地はどこだったのでしょうか。大雑把に書いていきます。 可児明知荘説と恵那遠山荘説の二つあり、現在は可児説が有力です。 可児明知荘は藤原摂関家につらなる小野宮家を領家としていたのが、 史料上の初見で、元永元年十二月の右中弁源朝臣雅兼…
明智光秀は確かに実在した。彼自身が書きしたためたと思われる 書状も多く残存しています。 公的な文書も多く残り、彼自身が記した花押も確認できます。しかし 現在の私たちは、彼の正確な生年月日や享年を、知ることができま せん。 光秀の父母に関しても諸…
光秀の時衆との深いかかわり合いには、彼の生い立ちが寺院そのもの中で 形成されたと考えられることにあるかもしれません。 中世日本は、武家社会と規定されますが、真の支配者は、何重にも積み重ね られた宗教集団の層であり、公家(こうけ)、武家はその存…
望月華山氏編「時衆年表」内の、応永二十年(1413年)五月の項に 高野山の僧徒聖方の念仏を制禁すとあります。 高野山は真言宗金剛峯寺の山号であり、空海以来、庶民の信仰を 集めた密教寺院で、いわゆる東密の中心的な修行道場でした。 聖とは、時衆系(浄…
室町幕府奉行人が発給した奉書内で、その内容が明智氏に 関するものとして確認できるのは、以下の一通です。 土岐明智兵部少輔頼定与同名兵庫頭人道玄宜相論事、 今和睦知行分者、可折中旨、被成御下知訖、宜被存知 之由、所被仰下也、仍執達如件 明応四年三…
プログ閉鎖のお知らせ。 8月31日をもつて、Yahoo!プログサービス終了に ともない、当プログも終了いたします。 学術調査・研究の場とも言えず、又文学的にも拙 いものにもかかわらず、長期にわたり閲覧ありがと うございます。 惟任光秀に関する研究発表は、…
美濃國立政寺は、智通上人により開山され、永禄年間、美濃にお ける時衆寺院の中心として、末寺を多く抱える大寺院でした。 永禄十一年(1568年)、還俗した足利義昭は立政寺に対し、禁制を 発し、寺門前に掲げます。 一、軍勢甲乙人等亂入狼籍事、 一、陣取…
元弘三年(1333年)五月、南朝方の赤松円心らの軍勢がせまる中、六 波羅探題北方北条仲時らは、御伏見上皇、花園上皇、光厳天皇を伴 い、鎌倉への避難をはじめました。 近江の国に入ると、探題南方北条時益は野伏の攻撃に会い戦死し、 仲時らも行く手を阻ま…
遊行十一代自空上人は、尾張萱津光明寺住職を経て、康暦三年(1381年) 、尾道常称寺にて、遊行を唯阿上人より相続しました。 自空は、戦場での時衆の活動について、掟を定め、その第一項にこう述べ ています。 時衆が、武士に同伴して戦場に赴くのは、死者…
「遊行三十一祖京畿御修業記」は、遊行三十一代同念の、天正六年 (1578年)七月から、同八年三月までの遊行の記録です。 伊豆より海路伊勢に入り、尾張、美濃、近江、都、大和を巡教し、それ 以前は、駿府で活動していました。 天正六年七月、織田信長へ使…
明智軍記内に以下の記述があります。 永禄八年、光秀は、越前長崎称念寺の園阿上人と、加賀山城温泉へ 湯治の旅に出ました。 この旅には、称念寺の時衆や小僧の定阿弥が付き添いました。光秀 は、僧侶に冗談を言ったり、即興で詩作したりで、楽しい旅を送っ…
里村紹巴は、連歌を通じて、光秀と極めて親密な関係にありました。光秀 が、紹巴にあてた手紙の中にも、その絆の堅さを垣間見ることができ、紹 巴は、愛宕百韻開催時、光秀の信長謀殺を知りえる人物でした。 (光秀と朝廷・公家社会⑨)(続濃州余談⑤) 紹巴…
鎌倉時代、連歌は講と密接に関連し、宗教的側面を持って発展しました。 特に菅原道真を祭る天神講は、連歌を奉納することで、天神供養を行い 、全国に波及しました。 このように連歌には宗教的な意味合いがあり、参加者のなかには、僧侶 や僧体の芸能者が多…
鎌倉時代末期から室町時代南北朝期は、全国で合戦が多発する 戦乱の時代でした。 寺社の束縛から離れ、各地を念仏行脚する時衆の僧たちは、転 戦する、足利氏等の軍団の中に身をおき、戦死した武士の極楽 往生を願い、弔いました。 彼らは、軍旅のなかで、武…
永禄九年九月以前、明智十兵衛尉光秀の名を、室町幕府関係、織田氏関 係そして朝倉氏関係の一次史料の中で、見出すことはできません。 「明智軍記」等の戦記、他家の家譜等に登場する光秀からは、その実在 を確認することはできません。 光秀の前半生を探る…
「細川家記」は、「綿考輯録」の別名であり、藤孝、忠興、忠利、光尚の 細川氏四代の業績をまとめたもので、安永七年(1778年)に完成しまし た。 詳細な記述で完成度の高いものですが、藤孝、忠興に関する記述には、 信憑性を疑われる部分も多く、「明智軍…
永禄九年九月、近江田中城に光秀と共に籠城していた、沼田勘解由左 衛門とは、沼田清延のことで、幕臣として義輝、義昭に近侍し、その妹 麝香は細川藤孝の正室となっています。 麝香は細川忠興の実母であり、自害した光秀娘玉に影響され、洗礼を うけ細川マ…
永禄九年(1565年)八月、信長の上洛戦は、斎藤龍興の和議破棄によ り不首尾に終わります。 これは三好三人衆による調略によるものであり、その手は六角氏にも のびていました。 これにより義秋(義昭)は、若狭その後越前と在所を移動させますが、こ の信長…
永禄八年(1564年)七月、覚慶(足利義昭)は近江国甲賀にある和田 惟政の館に入り、三淵藤英、大館宗貞、沼田清延、曽我助乗らの兄 足利義輝の側近がそこに参集した、と「足利季世記」は記しています。 覚慶は、八月には上杉謙信に書状を送り、兄義輝の無念…
熊本大学永青文庫研究センターの稲葉教授が、文庫内に現存する 米田家伝来の文書群の中から、光秀に関係する文章を解読されま した。 これは当時の薬の調合を記した文書で、その奥書(文書の最後に その由来を書きしるしたもの)に この調合書は、明智十兵衛…
天文六年(1537年)十一月、足利義昭は、十ニ代将軍、足利義晴の次男とし て誕生しました。 母は、関白近衛尚通の娘である慶寿院で、同母兄義輝が家督と十三代将軍 を継ぐことで、尚通の子稙家の猶子となり、興福寺一乗院門跡に入り、覚慶と 名乗ります。 摂…
十五代将軍足利義昭にいたるまでの、足利氏の血脈を整理してみます。 銀閣寺建立で有名な八代将軍義政は、弟義視を継嗣とします。しかし嫡男義尚の誕生 で、正妻日野富子らの策動により、義視はその地位を追われましたが、義尚が早世し ます。 富子は、自分…
鎌倉時代には、足利氏はすでに、家政機関としての奉行所を持ち、各地 に点在する所領には公文所を設けて、年貢徴収等で発生する諸問題を、 処理していました。 足利尊氏、直義兄弟により、全国政権が誕生すると、ここに北条得宗政 権下で、鎌倉幕府における…
永禄八年(1565年)、足利義冬を擁する三好・松永勢力は、将軍足利義輝を将 軍御所に強襲し、殺害します。 しかしこの両勢力は、半年後には、主導権をめぐり対立、戦闘状態に突入して 義冬の後継者である義栄は、松永久秀討伐令をだし、松永氏と決別しました…
永禄八年五月十九日の足利義輝最後の様子は「言継卿記」内に詳細に記 されています。 辰刻三好人数松永右衛門佐等、以一萬計俄武家御所乱入取巻之 戦暫云々、奉公衆数多討死云々、大樹午初點御生害云々, とあり、続いて、伊勢加賀守貞助が足利家伝来の御小袖…