2014-11-01から1ヶ月間の記事一覧
足利義昭は、天文十一年(1542年)興福寺に入室し、永禄九年(1566年) に還俗するまで、二十年を越す歳月を僧侶としてすごしました。 一乗院門跡として、将来は興福寺別当を約束され、還俗時、権少僧都の 地位にあり名を覚慶といいました。 義昭には延暦寺…
「言継卿記」内の九月廿四日付けの記述によると、叡山焼討 ちを終えた光秀は 早旦明智十兵衛摂州高槻ヘ罷向、千計有之云々、相誠用意 之用云々 とあり、兵千人ほどを率いて摂津高槻へ出陣したとあります。 又その翌日廿五日の記述には 早旦奉公衆一色式部少…
光秀の時代、敵対勢力による寺社の焼討ち行為は、特別珍しいことでは なかったようです。 天文元年(1532年)、都の人々の多くは日蓮宗に帰依し、六条本圀寺を 中心に強い勢力を持っていました。 この年、一向門徒が大挙して都に押し寄せるとの噂があり、都…
延暦寺僧兵の起源は、寺が所有する宝物類を警護する為の、僧侶の 自警団的組織にありました。 延暦寺では、最澄の弟子円仁の流れをくむ山門派と円珍の寺門派が 天台座主の座をめぐり、衝突を繰り返していました。両派に属する僧兵 は武装化を進め、対立する…
叡山における、織田勢による僧侶を含む大量殺戮には、疑問視する見方が あります。しかし長い歴史をもち絶大な影響力を保持し続けた延暦寺が、こ の後秀吉らによる失地回復の試みが行われるまで、信玄のもとに逃げた僧 を除けば、なんら活動しえなかった事を…
天正二年九月段階で、特に敵対的な態度を取っていなかった延暦寺を焼 き討ちした信長の真意は、潜在的敵対勢力の除去と叡山領の奪取にあり ました。 その実行部隊の中軸は光秀配下の軍事力でありました。 洛北の武士団は、志賀の陣を経て光秀との連繋を深め…
一向門徒と浅井氏にとっては、織田氏との戦闘は終結していなかった のでしょう。 元亀二年二月、近江佐和山城主磯野員昌が浅井氏から離反し、織田 氏に寝返ると、一挙に緊張が高まり、浅井氏と一向門徒は近江そして 伊勢長島で戦闘態勢に入ります。 光秀は、…
比叡山麓での、織田勢と下山してくる浅井・朝倉勢との戦闘は限定的 であり、睨み合いが続いていました。 元亀元年十一月十三日、光秀は吉田兼見邸を訪問し勝軍山城在陣を 告げ、岩風呂を所望しています。 二十一日には、兼見父兼右が勝軍山城に信長を訪ね、…
健さんが逝ってしまった。 薄っぺらな時代の中でも、彼なりに目指すものがあったのだろう。 行く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし。 延暦寺大行満大阿闍梨・酒井雄哉から受諾したこの言葉を座右 の銘として、生き抜いた役者人生であった。 緒方拳の 不…
「信長公記」によると 信長公志賀ノ城中佐山ニ御居陣ナリ、叡山西ノ麓、古城勝軍拵ヘ 津田三郎五郎、三好為三、香西越後守、公方衆相加ヘ二千バカリ 在城ナリ とあり、信長ら主力は、浅井・朝倉勢の後詰に備えて、叡山東麓に展開 し、光秀ら奉公衆は織田軍の…
光秀は、摂津より帰還後、穴太要害で佐々成政らとともに、浅井・朝倉 勢と対峙しますが、浅井・朝倉勢が比叡山に籠ったので、ニ日後の九 月二十六日都へ戻り、洛北で岩倉山本氏らとともに、防衛線を構築し たと考えられます。 北白川あたりまで、一揆勢は押…
三好三人衆の勢力を畿内から駆逐すべく信長は摂津へ軍を進め、義昭 も兄義輝殺害への報復を胸に刻んでの出陣でした。 しかし、信長の意図に反して、本願寺勢を敵にまわすこととなり、顕如の 呼びかけに応じた、延暦寺と浅井・朝倉勢は都にせまり、信長の後方…
元亀元年八月、三好三人衆は再度義昭・信長に対して挙兵し、信長方 である松永久秀や三好義継らと戦闘状態に突入しました。 浅井・朝倉勢を姉川で打ち破り、岐阜へ帰還していた信長は、急遽都へ 入り、兵を整え八月二十六日に摂津天王寺に着陣しました。 こ…
光秀の時代においても、戦闘の根幹には兵士の相互協力があり、 攻撃に対して組織的防衛を行うには、日頃からの意思連繋が欠く べからざる要因であることは現在と変わりません。 足利義昭の上洛後の拠点である本國寺攻撃には、三好勢は六千 の兵士を動員した…
「言継卿記」の永禄十一年二月八日(1568年)付けの記述に 左馬頭源朝臣義榮宣爲征夷大将軍、兼可聴禁色 とあり、この日足利義栄が十四代征夷大将軍に就任しました。 義栄は平島公方足利義維の子であり、十三代将軍足利義輝の 従兄弟にあたり、義輝を殺害し…
足利義昭を奉じて上洛した信長は、朝倉家当主義景に都への上洛を 要請します。 義昭を手中に収めた信長が、室町幕府の名目的権威を利用し、越前 朝倉氏を、自分の影響下におこうとしたこの試みは、誇り高い朝倉氏 には受け入れられないものでした。 これを義…
土岐頼武は美濃守護土岐政房の嫡男で弟に頼芸がいました。政房が 家督を弟の頼芸に継がせようとした為、美濃国内は頼武、頼芸両派に 分れ争います。 最終的には頼芸派が勝利し、頼武は越前浅倉氏を頼り亡命します。 この後、頼武は朝倉氏と縁続きとなり、政…
織田信長と足利義昭の関係は、義昭の上洛一年後の元亀元年には はやくもぎくしゃくし始めます。 それぞれの思惑が乖離しており、義昭は選択する相手を間違えたと やっと気づいたというところでしょうか。 信長はこれに先立つ三年前の永禄九年には、前年の兄…
元亀元年六月、織田・徳川連合軍は、近江姉川にて、浅井・朝倉連合 軍と激突します。 相互の兵力の実数は不明ですが、共に一万を越す大規模な戦闘であっ たことは確かなようです。 徳川勢の参戦をみても、地の利に劣る織田方が圧倒的な優位にあった とは思え…
永禄十二年正月五日、三好三人衆は足利義昭のいる六条本國寺を、包 囲攻撃します。 「信長公記」のなかに、防戦する面々の一人として、光秀の名が記されて います。 「明智軍記」によれば、この戦いで光秀は、得意な鉄砲を操り、敵将薬師 寺貞春を撃ち倒した…
戦国武将は、刀の試斬を生身の人間で行う事が一般的であり、殺人 行為に習熟するのが目的でありました。 木下延俊は高台院の甥で、小早川秀秋の兄にあたりますが、彼の慶 長十八年の行動は、祐筆らにより克明な記録が残されており、武将 の日常を、詳細に知…
「信長公記」によると、信長は 十六、七、八マデハ、別ノ御遊ビハ御座ナシ。馬ヲ朝夕御稽古、 又三月ヨリ九月マデハ川ニ入リ、水練ノ達者ナリ。其ノ折節、 竹鑓ニテ扣キ合ヒヲ御覧ジ、 とあり、十八ぐらいまでは、連歌などを嗜む事無く、朝夕乗馬の稽古 をし…
信長は太陽であり、光秀はその光を受けてはじめて輝く、暗闇 を照らす月であったかもしれません。 光秀には、信長を討ち果たさなければならない理由と、確固た る信念がありました。 しかし、信長が消えた世界は、輝きを失い未来への指針を喪失 し、光秀自身…
信長が上洛の折滞在した光秀の館は、都のどこにあったのでしょうか。 元亀三年正月六日、吉田兼見は普請中の坂本城を訪れ、明智光秀と 面会します。 雪降、明十於坂本而普請也、爲見廻下向也 とあり、雪の降る寒い日であったようです。城の完成後、光秀は住…
天正九年四月十七日、吉田兼見はその日記にこう記しています。 自丹州宇津惟任日向守書状到来、當城堀井、河原者、相添 此者急度可罷下之由申来、即申付、差下返状、美濃柿百到来、 光秀から、丹波宇津城で井戸を掘るので、河原者を派遣して欲しい との内容…