2016-01-01から1年間の記事一覧
伊勢貞興(1562~1582)は、祖父貞孝、父貞良が船岡山で挙兵し、その 後戦死すると、兄貞為とともに、若狭武田氏を頼り落ち延びました。 兄貞為は、その後伊勢氏家臣団の推挙により、十四代将軍足利義栄に仕え ますが、義栄と対立する義昭が、織田信…
およそ百七十年にわたり続いた伊勢氏による政所頭人世襲は、伊勢貞孝 が、時の都の権力者である三好氏に討たれることで終焉を迎えます。 永禄五年、貞孝はそれまで同盟関係にあった三好氏に代わり、六角氏と 協調関係を結びます。この裏には十三代将軍義輝の…
室町時代、有力寺院や武家、公家をはじめ、多様な人々が様々な問題を 幕府に提示し、その解決を依頼しました。 幕府内でその任にあたっていたのが政所で、鎌倉幕府以来の先例等に 精通した奉行衆で構成されていました。 政所はもとは足利嫡流家の家務を掌る…
奉行衆とは奉行人とも呼ばれ、室町幕府内で右筆衆と称されるように 事務処理能力に長けた武家集団でありました。 室町幕府初期の行政・裁判機関は鎌倉幕府に倣っており、侍所、問注 所、引付方、政所等が設置されていました。 その後、管領制が成立すると、…
明徳元年(1390年)、足利義満は美濃、伊勢を領する、有力守護家の一つ である土岐康行を討伐し、翌明徳二年には、同じく丹波、丹後、和泉、出雲 の守護として、絶大な勢力を持っていた山名氏清・満幸を成敗します。 足利氏嫡流である将軍家の権力強化をめざ…
明智十兵衛光秀。この人物の出自については確たるものはなにも ない。父、母の名前どころか、生年月日さえもが闇に包まれている。 しかしこの人物が良質な一次史料のなかに登場する期間は十五年 以上におよび、この期間の足跡は確実にたどることができます。…
織田信長は発布した撰銭令に対し、翌三月には追加条項を付加しました。 (明智資料㊺) その第一項では米による商取引を禁止し、第二項では唐物の生糸、陶磁器 などの高額商品の支払いに、金、銀を用いる事を認めます。 七ヶ条からなる追加項目のうちこの二…
永禄十一年(1568年)九月、織田信長は足利義昭を奉じ上洛し、南禅寺、妙心寺 、東寺等の寺院に禁制を下しています。信長と織田軍主力は東福寺に布陣し、他 部隊も各寺院に陣を敷きました。信長は都を武力制圧すると、同月二十六日には 洛中法制を発布し諸政…
天文二十一年(1552年)、誠仁親王は正親町天皇の第一皇子として誕 生します。 永禄十一年(1568年)、織田信長からの資金援助により、親王宣下を 受けており、当時の朝廷・公家社会の歌壇をリードする存在でした。 父正親町天皇と異なり、祖父後奈良天皇の…
弘治三年(1557年)、正親町天皇(方仁親王)は、父後奈良天皇の死去に伴 い、天皇の位を受け継ぎました。桓武天皇の時から、同日に即位礼がとりお こなわれていたのを、別の日に行うことが通例となっていましたが、正親町 天皇は天皇家の資金不足から、三年…
戦国末期、摂関家は天皇・朝廷とは独立した経済的基盤を有しており 、その経済力が、朝廷祭事等に貢献することはありませんでした。 困窮した天皇の暮らしと比較して、彼らのそれは安定しており、独自の 政治性を時代の変換点で発揮しています。 摂関家のう…
室町時代以降、確認できる朝廷の儀式は、主だったものに (1月)後七日御修法 (2月)祈年祭 釈奠 (4月)賀茂祭 (6月) 月次神今食 (8月)釈奠 (9月)例祭 (11月)鎮魂祭 新嘗祭 ( 12月)月次神今食 追儺 があります。その他にも祈念穀奉幣…
広島、長崎への原爆投下により、日本の敗戦が決定的になった。政府、軍首 脳の敗戦後の、国体維持への試みは、連合国側の無条件降伏提示の前に 打ち砕かれていました。(四人の天下人⑱) すなわち、昭和天皇およびその一族の身分保証、ならびに天皇を軸とし…
元亀元年、光秀は信長上洛後まもなく、公家衆に対する家門、家領安堵作 業に従事します。 この作業は元奉公衆朝山日乗とともにおこなわれました。これらの作業は、 室町幕府初期に足利義満により、足利将軍が天皇、上皇をコントロールす る手段として、天皇…
天正八年十二月二十九日に、正親町天皇典待であり、誠仁親王生母の 万里小路秀房女(清光院)が急死します。 悲しみに暮れる天皇、親王を慰め、都に活力を蘇らす為に馬揃えが開 催されたと、の説がありますが、この一大セレモニーはやはり、信長に よる対本…
天正七年(1579年)七月、イエズス会東インド管区巡察師ヴァリニヤーノ は来日し、当地区の最高責任者として、日本布教の様子を視察していま す。 彼の滞在予定は二年でしたが、帰国に先立ち、信長との謁見を希望しま す。彼の宿舎南蛮寺は、信長の都での宿…
天正九年二月二十八日、内裏の東側に、北から南へ八町(880メートル程) の距離がある馬場を、毛氈で包んだ柱を立てて造り、内裏東門側の築地の 外側には、金銀を散りばめた行宮を設けて、天皇、公家を迎え馬揃えは開 催されました。 信長は下京本能寺を辰の…
貢馬御覧は、その起源は古く、鎌倉時代には賀茂祭にあわせて、執権 が名馬を献上し、天皇の内覧後、摂関家等に下されています。 室町時代になると更に整備されており、守護大名から供出された馬を、 将軍が貢納し、天皇が御覧になってから、公家に配分される…
天正九年正月十五日、織田信長は、馬廻衆および江州衆に爆竹を用意 させ、自らは南蛮帽をかぶり、赤色の衣服を身にまとい、眉を書いて、小 姓衆を先頭にして、安土城内の馬場にはいりました。 馬場では爆竹に火をつけ、馬を駆けさせ、そのまま安土の町へ繰り…
官を辞した信長と天皇、そして光秀が深く関った行事に、都での馬揃 えがありました。 天正八年、信長は長期にわたった、本願寺勢力との戦闘に終止符を 打ち、畿内全域をほぼ勢力圏に置き、天下統一を目前にします。 本願寺との講和には、正親町天皇、誠仁親…
このプログを始めてから、3度目の光秀による本能寺での 信長襲撃当日を迎えました。遅々として進まないプログ発 表を申し訳なく思っています。 だいだいの所で適当に結論を出して、次なるテーマに進み たい、と自分でも切望していますが、偏執的な性格なのか…
信州真田家と光秀を産んだ明智家とは、意外なところでその接点を見 出すことができます。 真田昌幸の六女は、光秀正室煕子の里、妻木家の流れを汲む下郷 妻木家二代目妻木頼熊に嫁ぎ、その次男の妻木幸頼は、子がなかっ た昌幸の孫、信吉の婿養子になってい…
正親町天皇の父、後奈良天皇の在位時、朝廷から寺社への勅使派遣は、 興福寺、延暦寺、大徳寺、北野社、岩清水八幡宮そして妙心寺に対して、 六月会、唯摩会開催や各寺の住職就任祝い等を目的としてなされました。 正親町天皇の御世になっても、大徳寺、延暦…
現在の天皇家と宗教の関係は、天皇家が飛鳥・奈良時代以来、仏教を国家 統治の要とおいてきた歴史からみれば、極めて特異なもので、天皇を神道の 祭祀者のみに限定するものとなっています。 昭和天皇が魂の救いをキリスト教のなかに見出したように、室町時代…
10世紀になると、律令的戸籍制度は崩壊し、氏姓は、源・平・藤・橘をは じめ、紀・菅原・大江・賀茂・小野・惟宗・清原等に大きく集約されます。 光秀が名乗った惟任の姓は、光秀以前に、その名を持つ特定の人物の存 在を確認することはむずかしいですが、…
信長は、右大臣を辞した後も、しばしば上洛します。祇園御玉霊繪を見物 したり、二條屋敷で相撲を興行し、公卿らは残らず見物に訪れています。 又、安土と都のあいだに、新道を整備し往来を活発にしています。 天正六年八月には信長は禁裏に白鳥と塩引を進上…
天正六年四月、織田信長は右大臣と右近衛大将の両官職を辞します。しかし、 正ニ位の位階は残したままであり、公卿の身分には変化がありませんでした。 前年信長嫡男であり、織田家家督を相続した信忠は、従三位・左近衛権中将 に叙されており、官職を辞退す…
天正六年十月二日、信長は南方への出陣の際、安土城において女房衆が、実鏡 院殿御外出をいいことに、豪遊したことを聞き怒り、帰城すると、女房さいと重伝 というものを切り捨てた、と「兼見卿記」内の記述にあります。 御成敗重傅、今度南方之御留守、実鏡…
天正三年十一月七日、織田信長は権大納言兼右大将に任官します。自ら陣座 を設える気合のいれようで、翌八日には、公家衆悉く、信長のもとを参賀に訪 れます。 信長は十四日に岐阜に帰り、その翌日に村井貞勝より、公家衆に新地を宛がう 旨申し出があります…
天正三年五月、織田・徳川連合軍は三河長篠で、武田勢を打ち破ります。 武田勢は信玄以来の重臣の多くを討取られ、武田勝頼の西方への侵攻 戦は中断を余儀なくされました。(光秀戦闘史㉝㉞) 同年七月、明智十兵衛光秀は、惟任と改姓し日向守を受領して、以…