惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長④)



天正九年八月二十一日付けの多聞院日記に、以下の記載があります。

今暁惟任被帰了。無殊儀珍重珍重。
去七日八日比興欠、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了。
信長一段ノキヨシ也。向州無比類力落也。

この頃、光秀は大和国にいて、郡山城の修築の監視や寺社等との折衝に当たって
います。日記は、本日明方、光秀が帰途についたことを記し、特別な事もなくてよか
ったと述べています。なにか厄介ごとでもあったのでしょうか。

続いて、光秀の妹、御ツマキが死去したことを述べています。恐らくは、光秀の妻
煕子が妻木氏であるので、煕子の妹か、その親族ではないかと思われますが、
光秀の実の妹の可能性もあります。

信長の妾の中でも格別美人であると述べています。

煕子も美しく、その娘玉は、秀吉がその美しさゆえ、命を助けたといわれるほどの
絶世の美女であり、嫡男光慶も宣教師によれば、欧州の貴族の子弟のように美し
かったと言われています。

このように明智氏につらなるものは、美男美女の家系だったのでしょうか。

光秀が、この御ツマキの死去を、比べるものがないほど落胆したと述べています。
信長の私生活面においても、正室井口殿、母土田御前そしてこの御ツマキなど、
明智氏と、関係性を持つものがいたことがみてとれます。

御ツマキの死去を光秀が、何故このように落胆したのかはわかりませんが、彼女
の存在が、安土城内での、光秀の活動を円滑にしていたのかもしれません。