惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑰)


妙心寺史」には、

かくて六月ニ日の黄昏頃、光秀が軍勢一同は、勝鬨を上げて我が妙心寺
に引き取った

とあります。引き取るとは、一度出て行ったものを受け取るの意味があり、又
預かり世話をするとの意味もあります。

妙心寺に光秀が本陣を、置いていた事をうかがわせます。総大将は作戦遂行
時は、本陣を設け、部下からの報告を受け、指示を出します。総大将が、戦闘
の最前線に赴く事はなく、総大将が動きまわっていれば、指示を仰ぐ部下から
の使番は、どこに行けばいいのかわからず、混乱をきたします。

亀山を出発した明智軍は、「細川忠興軍功記」に

明智左馬之助光遠人数。京へ俄に出し申候。残人数も押寄。無程本能寺
に攻懸り申候

とあるように、明智秀満を先遣隊とし、信長、信忠が南下し丹羽、信孝軍と合
流する為の退路を断つべく、本能寺南方に布陣し、包囲したと思われます。

本能寺襲撃の実行部隊は、斉藤利三の部隊であり、信長に殺されかけた利
三には最適の任務でした。

南方への脱出路をふさがれた信長たちが、安土ヘ向かえば、坂本城からの軍
勢に行く手を阻まれ、追撃してくる明智本隊とで挟み撃ちになります。西方に
活路を見出そうとしても、光秀の本陣があり、動きがとれません。

信忠が、信長死後も、退路を切り開けず、二条御所での戦闘に終始したわけが
理解できます。

戦闘が終了し、妙心寺に集合した明智軍の兵士は、一時の休憩をとり、武具を
整え、火薬を補充し、光秀の禁中からの帰還を待って、安土城に向かい行軍し
ていったものと思われます。