惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ⑨)



天正九年、光秀は戦いに明け暮れた日々が一段落し、丹波経営に
注力しています。

六月二十一日には、城塞破却の命に従わない土豪を成敗した旨を、
新たに明智家臣団に組み入れられた出野氏、片山氏に伝え、家臣
団の統制を図っています。

丹波各地に城代としておかれた、斉藤利三明智秀満らもそれぞ
れの地域で、光秀の領国支配を分担し、光秀の支配権強化に努め
ます。
寺社に対する工作も両名は担当し、利三は白毫寺に対して免許状
を与え、諸役を免除しています。

秀満は

当寺之事、光秀判形之旨無相違、諸色令免許訖、被其意、可被
任覚悟者也、仍如件

    天正九年十月六日          秀満(花押)

    天寧寺  納所禅師

とあるように、福知山城代として、天寧寺の諸役を免除しています。
丹波国統治には、信長の関与は全く見られず、光秀がその才覚で
彼の重臣とともに支配を貫徹しており、そのあらわれが「明智軍法」
であるといえます。

正妻煕子の死去後、光秀が継室を迎えたとの記録はなく、他の女
性との関係も史料上には見当たりません。

山崎合戦後、坂本城落城の時、秀満は光秀家族を殺害したのち自
害しましたから、側室はいたのかもしれませんが詳細は不明です。

天正九年は光秀にとって彼の人生で一番いい年であったかもしれ
ません。

馬揃が終わった四月十二日、丹後へ赴き、細川藤孝、忠興親子や
嫡男光慶そして恐らくは忠興正室である娘玉とともに、天橋立に遊
び、連歌を楽しんでいます。(光秀とその家族②)

この時、忠興は舅光秀に地蔵行平之太刀を進上しています。刀剣
収集が趣味であった光秀にとってその嬉しさは格別なものでした。

この時光秀が詠んだ句があります。

うふるてふ松は千年のさなえ哉          光秀

うふるは潤うで信長の右府とかけ、信長のめぐみを受けて、ゆとりが
でき、枯れない松のように、光秀や嫡男光慶が明智家が千年続く為
の早苗になる、と詠んでいます。

信長からの信任も厚く、細川忠興、織田信澄らの娘婿を持ち、筒井
順慶ともなんらかの縁戚関係を形成し、有能な家臣に恵まれ、信長
実母、正室とも深いつながりのあった光秀が、翌年本能寺で信長を
討ち果たす事になる、とこの時誰が想像できたでしょうか。(光秀
と信長①②③)