惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀の出自と前半生①)



まず、明智光秀という謎多い人の出自から語ろう。土岐氏支流のひとつ明智氏の出と
いわれます。しかしこの明智氏は現在その嫡流、傍流にかかわらず正確な系譜を持っ
て残存しているものがありません。

明智氏は、土岐氏から派生し、現在の岐阜県恵那市近辺に土着していたものが土
岐宗家の美濃西方への本拠地の移動にともない、同じく岐阜県可児市木曽川
くに移動したと思われますが、それを示す一次、二次資料ともにみいだすことがで
きません。

たしかに明智氏は2度にわたり、その氏族の衰亡を経験しています。一度目は可児
長山城の落城のおり、多くの明智一族、ならびにその譜代の臣が戦死しています。
二度目は、山崎の戦いおよび続く坂本城攻防戦で、光秀をはじめおもだった家臣が
戦死し、ほぼ全滅の憂き目に会っています。家譜等の散失は当然考えられます。

しかし、「明智軍記」等によれば、明智氏土岐光衡を祖とし、土岐頼清の次男明智
頼兼が長山城を築城し、光秀のときまで明智氏嫡流が拠点としたとされます。これが
事実に近いものとすれば、その歴史は長いものとなるのですがこの長山城を拠点とし
た、明智宗家及び嫡男光秀に関する資料が見当たらないのです。他家の歴史的資料
のなかにも、この時代に関しては登場することはありません。

光秀が織田信長の家臣となり、細川氏や公家等と交流するなかで、彼らの残した日
記等のなかに、始めて光秀とその一族の存在が確認されます。

私がこのプログを立ち上げたのは、この光秀の実像に一歩でも近づき、彼なりに戦国
の時代を精一杯駆け抜けた証を、多くの人に知っていただきたいからです。