本能寺襲撃の謎にせまる(光秀の出自と前半生①)
て残存しているものがありません。
岐宗家の美濃西方への本拠地の移動にともない、同じく岐阜県可児市の木曽川近
くに移動したと思われますが、それを示す一次、二次資料ともにみいだすことがで
きません。
たしかに明智氏は2度にわたり、その氏族の衰亡を経験しています。一度目は可児
戦死し、ほぼ全滅の憂き目に会っています。家譜等の散失は当然考えられます。
事実に近いものとすれば、その歴史は長いものとなるのですがこの長山城を拠点とし
た、明智宗家及び嫡男光秀に関する資料が見当たらないのです。他家の歴史的資料
のなかにも、この時代に関しては登場することはありません。
記等のなかに、始めて光秀とその一族の存在が確認されます。
私がこのプログを立ち上げたのは、この光秀の実像に一歩でも近づき、彼なりに戦国
の時代を精一杯駆け抜けた証を、多くの人に知っていただきたいからです。