惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその家族⑤)



光秀は永禄十二年、突如歴史の舞台に登場します。山城の国での寺院領の安堵、
ならびに都での信長・義昭の住居近くへの、立ち入りを禁止する書状を発給したの
に続いて、四月十四日付けの有名な秀吉、光秀連署による禁制で、賀茂庄中に
対して、年貢納付と労役供出を指示命令しています。(明智資料③)

岐阜市にある常在寺には「常在寺文書」という文書群があります。その中に、
明智光秀丹羽長秀連署状写し」があります。これは永禄七年に、常在寺領での、
乱暴狼藉を禁止したものですが、光秀の署名が日向守光秀となっています。光秀が
日向守を受領したのが天正三年であることを考えれば、時代的に疑問点があります
が、なぜこのような文書が残っているのか、興味深いものがあります。

光秀の登場は、永禄十二年まで待たなければならないようですが、実は光秀はその
前年、細川藤孝とともに、何路連歌百韻興行「雲に月」に連衆として同座しています。

連歌興行に参加できるのは、武士であれば教養がある、それなりの侍身分にあるも
のに限られ、光秀が藤孝の中間であった、というのは「多聞院日記」の記述から引用
されたものですが、俄かには信じられません。

信長のような革新的な人物ならともかく、室町幕府という、旧来の権威のみで生きて
いる組織に属する人間であった藤孝が、もし光秀が、自分の下級の家臣であるとした
ならば、共に連歌を楽しむとか、嫡男忠興の正室にその娘を迎えるということは、自
分の存在基盤を脅かすことにも繋がり、考えにくく思われます。

このように光秀は歴史舞台に登場しますが、その活躍した期間は長いものではありま
せんでした。


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