惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその家族④)



光秀の実母は、牧の方といい、若狭武田家の出であるといわれますが、その実在を
示す資料は何もありません。

光秀と正妻煕子のあいだには、いくつかの逸話が残っています。何故このような話が
残っているのかは不明ですが、光秀がすすんで煕子を妻に迎えた事、煕子が困窮時、
黒髪を売って光秀を助けた事など、共にその夫婦仲のよさをあらわしています。

天正四年五月、光秀は本願寺攻めの最中に発病し、九月まで治療をうけています。
信長も心配し見舞いを遣わしています。かなりの大病であったらしく、煕子は吉田兼
見に光秀の病平癒の祈祷を頼んでいます。兼見のみではなく、多くの寺社仏閣にお
参りしたことと思われます。

その甲斐があったのか光秀は快癒するのですが、十月今度は煕子が病に倒れ、光秀
が兼見に病平癒の祈祷を頼んでいます。十一月には煕子は死期を悟ったのか吉田社
に入り、光秀の見舞いをうけています。煕子は坂本城落城まで生存したという説もあり
ますがこの後まもなく死去したと思われます。

このように光秀と煕子は仲のいい夫婦であったようです。その子玉も身近にその様子
をみて夫細川忠興に尽くします。忠興もそれにこたえ、時代に流されながらも可能な限
りの援助を惜しまなかったことが資料から見て取れます。有名な話ですが関が原の戦
いの前、玉は大阪細川屋敷で、西軍の人質になるのを拒否し、自らの命をたったので
すが、その時嫡男忠隆の正室千世は姉、豪姫のいる宇喜多屋敷に逃れます。忠興は
この行為に激怒します。

玉を連れて逃げてほしかったのかもしれません。忠隆に千世との離縁をせまりますが
忠隆は頑強にそれを拒みます。結局忠隆は廃嫡され、三男の忠利が家督をつぐことと
なります。やはり忠興の心底には、玉に対する想いが強くあったと思われます。

この後忠隆は趣味人として生きるのですが、彼のなかにも、光秀と煕子が作り上げた
夫婦の形が、玉を通じて伝わっていたかもしれません。


細川玉 自筆書状
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