惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と秀吉①)


上卿 甘露寺大納言
天正十年十月三日宣旨
平秀吉
宣令叙従五位下
蔵人頭左近衛権中将藤原慶親奉

これは、足守木下家に伝わる、ねねが秀吉死後も、大事に保管していた口宣案です。
口頭で朝廷から、秀吉に伝えたものの案文で、その後秀吉に渡されたと思われます。
ねねが秀吉の思いでとともに、身近に置いていたのでしょう。

羽柴秀吉天正十年、従五位下に叙され同日付で、左近衛権少将に補任されています。
天正十年十月三日付の正親町天皇綸旨によれば、「逆賊明智光秀ならびにその一族を
追討し天下泰平をもたらした功により」とあります。

光秀が信長の推挙により、朝廷から、惟任の名字を与えられ、日向守を受領する、天正
三年から七年後のことです。秀吉が平氏を名乗っているのが興味深いですが、この後
藤原氏に改姓し、関白となります。その後、豊臣朝臣秀吉となるのですが、朝廷にとり
秀吉は、信長とは違い、御し易い人物であったようです。

山崎の戦いはどうみても、光秀が、逆賊秀吉から、都を守護する為の名分で始めた、
無謀な戦いだったと思えますが、やはり結果として光秀が逆賊になりはててしまいました。

安土城坂本城に2万の手勢で籠れば、秀吉もうかつに手出しができなかったでしょう。
その後の時間の経過は、長宗我部の参戦等、光秀にとり有利な展開をもたらすのでは
と思えるのです。

一旦都に秀吉を入れてしまえばいわゆる玉(天皇)が奪われるということなのでしょう。
頭を剃り、袈裟をまとい、僧体になり背水の陣で、戦いにのぞんだ秀吉と、大義名分に
こだわった光秀との差がでてしまいました。

そしてこれは、織田政権内での、秀吉と光秀の職分の違いから来るものでした。


山崎合戦絵図(陶板画)
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