惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と秀吉②)


光秀による、天正十年における、本能寺襲撃の背景を考えるには、織田信長という類ま
れな個性が作り上げた、織田軍事政権の特性と変質を、明らかにする必要があります。

(1)尾張美濃時代
一族並びに近隣土豪らとの苛烈な支配権争いを経て、信長が尾張半国、続いてその
全土支配下におき、さらに美濃斉藤氏との争いに勝利し、美濃を支配下に治める。

(2)美濃京都時代
足利義昭を奉じて都にのぼり、その名目的な権威を利用し、都近辺をその支配下におく。
その後義昭を追放し、浅井・朝倉を攻め滅ぼし、北近江、越前を支配下に置き、美濃、
尾張との一体化が図られた。光秀が織田政権内にはじめて登場する。

(3)安土京都時代
信長は安土に城をつくり、室町幕府を簒奪する形で、朝廷と一体化をはかり、五畿内を
始め丹波、丹後、若狭、播磨、備前、等を支配下におく。東方の脅威であった武田氏を、
松平氏とともに長篠の戦いで撃破し、その脅威を取り除き、西方への進出を加速させた。
毛利氏に援助された本願寺との戦いは長期化したが和議がととのい、毛利氏との直接
対決に移る。全国統一政権の樹立を現実的な課題とする。光秀の政権内での活躍が
華々しい時代である。

(4)全国政権展開時代
天正十年三月、武田氏を攻め滅ぼし、ならびに北条氏などの、東方諸領主からの恭順の
意思を認める。全国制覇の矛先は西方の毛利氏、長宗我部氏の討伐にむかうが、その
目前に京都本能寺で、信長が嫡男信忠とともに、光秀に討たれ、織田政権は実質的に
崩壊する。この期間はきわめて短い。光秀の政権内での重要性が低下する時代である。

織田政権の特性は、いうなればチンギスハンの領土拡大と同質なものがあり、自転車操業的に
領土拡大を図らねば、倒れてしまう性質を含んでいたと思います。正常な治世者ならば、
本来統治すべき土地の人々を皆殺しするという発想はありえないのですが、日本では稀有な
伊勢長島、越前等での皆殺し作戦は実行され、恐らく著しく、このエリアの生産性を落とすこ
とに、つながったと思えます。

結局この政権も豊臣政権が秀吉、秀頼の二代で完結したように、信長、信忠の二代で幕を下
ろし、ともに短命で終わりました。
秀吉は莫大な金銀を溜め込んでこの世を去りましたが、信長は軍事費に金を使いすぎたのか、
あまり財産は残せなかったようです。

そういった政権内部の中枢にいた、光秀、秀吉という人物の生い立ちは謎に包まれています
が、織田政権の、前時代的な古い部分を、引きづった家臣の代表が光秀であり、次の時代
への扉を押し開ける家臣の代表が、秀吉であったと思います。

これは光秀の考え方が旧来型であったというのではなく、そういった土壌や考え方をもつ、
旧幕府奉公衆のような家臣団を、統括する立場に光秀があったということです。

いずれにせよ、佐久間信盛追放後の織田政権内において、この二人が率いる軍団が、織田軍
の中核を形成していた事は、疑いようがありません。