惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と秀吉⑦)



明智資料①は光秀が、細川父子に当てた自筆の書状です。その3項目の内容はこのよ
うなものです。

我等不慮之儀存立候事、忠興ナド取立可申トテノ儀二候、更無別条候、五十日、
百日之内ニハ、近国之儀可相堅候間、其以後者、十五郎、与一郎殿ナド引渡申
候テ、何事モ存間敷候、委細両人可被申候事。
                     
信頼性の比較的高い、細川忠興軍功記によれば、父子共に丹後宮津で、備中への出
陣に備えていたところ、愛宕下坊よりの飛脚があり、泥足のまま御広間にかけあがり、
信長様御父子、光秀公により、御腹召され候と注進しています。

その後、光秀公よりの使者、沼田權佐が宮津へ到着し、忠興に、軍勢を引きつれ、光
秀方に急ぎ参陣するよう伝えたとあります。

忠興は、使者に対し、今回は命を助けるが、重ねて参候の時は、誅伐すると伝え、光秀
の申し出を拒絶しています。それに対して、六月九日、光秀から再度この手紙が送られ
ています。

この文面の中で重要な事は、五十日、百日の間に、近畿一帯を平定すると言っている
ことです。この時点で秀吉との戦闘を予測していたかどうか不明ですが、近畿平定に
そのぐらいの期間が必要であるという、光秀の認識がよくわかります。

光秀の、敗因の最大のものは、やはり秀吉による急速な、対光秀戦線の形成にあり
ました。五十日どころか、十日で光秀との戦端をひらいた秀吉の力量には感服します。


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